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長谷部千彩さま

いつの間にか世は春。チワワのちーちゃんとのお散歩はきっともう軌道に乗っていることでしょう。外を歩くと、犬といっしょに散歩する人たちとよくすれちがうのですが、正面から見る飼い主と犬はたいていそっくりです。顔立ちはもちろん、体型や歩く姿が似ているので、いつも密かに笑ってしまいます。長年にわたるわたしの観察によれば、人のほうが犬に似てくるんですよ。逆ではありません。

自分の書斎と決めている近くの図書館に週に2、3度は行きます。借りている本を返したり予約していた本を借りたりするついでに、雑誌を読んだり開架の本棚を少しだけ眺めてみたり。先日は日本の作家によるエッセイのコーナーを見ました。複数の著者によるアンソロジーなどは著者のあいうえお順の「ん」にまとめられています。そこに作品社の「日本の名随筆」がずらりと並んでいて、69巻目の「男」森瑤子編がふと目にとまりました。森瑤子が「男」というテーマで誰のどんな随筆を選ぶのだろうと目次を開いたら、ながいこと気になっていたエッセイが載っていたのがうれしい驚き。それは中沢けいの「僕が僕と言う理由」(初出は『風のことば 海の記憶』1983年 冬樹社)で、読んだのはその本が出たばかりのときです。そのときたった一度読んだだけの短いエッセイなのに、タイトルを覚えていたのは、その当時、自分を僕という女性が周囲に何人かいたから。中沢けいもその一人だったということですね。わたし自身もたまに使っていました。

「現実などにかかわりを持たずに広々とした空想的な世界に住んでいなければ考えられない事柄もいっぱいある。少年や少女のしっぽを持つ青年が頭を使っているのは、そんな事柄だ。「私」だの「あたし」だの、瑣末な現実を引きずり込んで来る人称を使いたくない時もある。僕には僕しかない。」ほんとうにそのとおりと当時も今も感じます。

このエッセイが出たころにくらべれば、いまは自分を僕という女性がいても特に奇異には感じません。わたしも友人には、ボク、おいら、オレ、などと言ってみたりします。そうすると、ほんの少し浮遊した感じが生まれて、それは自由に通じる感覚だと思うのです。

さらに、偶然ですが、出たばかりの『影犬は時間の約束を破らない』(パク・ソルメ 斎藤真理子訳 河出書房新社)を読み始めたのです。そうしたら、最初の「夏の終わりへ」で「ウンの日記では最新のものほど、彼が見た童話の世界と死んだ子供の話を結びつけていた。」というセンテンスに出くわして、あれ?ウンは語り手の女性の友人のはずなのに、誤植かな?とまずは思ってしまったのでした。

けれども訳者の解説にはこうありました。「そもそも韓国語は日本語に比べて性差表現が少なく、また評論や報道記事などでは女性に「彼」を用いても不自然ではないが、文芸作品においては「彼女」と「彼」を使い分けることが多かった。それに対して近年はパク・ソルメと同様、女性の人物に「彼」を使う作家が増えており、これは英語で女性にも「They」を用いるのと似たような流れの中にある。こうした動きは今後も続くだろう。」

女性の三人称として「彼女」ではなく「彼」を使ってみると、その人の抽象度が高くなると感じます。たまたま女性として生まれてきただけなのに、日常のほとんどは女の属性に押し込められているのが現実です。わたしが「彼」を誤植かなと思ってしまったもそのひとつの反応ですから、自分でそこからはみ出なくてはと思いました。はみ出してみてはじめてわかることがあるはず。「僕」も「彼」もたった一文字のことばですが、ことばの楽しさと怖さを感じた春のある日の午後でした。「こうした動きは今後も続」いてほしいです。

2025.3.18
八巻美恵

八巻美恵 YAMAKI MIE 編集者  suigyu.com