長谷部千彩さま
短い梅雨のあとに猛暑がやってきて、それからまたじめじめした梅雨の戻りがありました。ようやく、ふつうの夏らしい気温と湿度の日々になったけれど、気候はともかく、ほかにもいろんな問題がありますから、これからどうなるのかな、と思ってしまうところがこれまでの夏とは大違いなこのごろです。
夏になって、素足でサンダルを履いた最初の日の夜は、足の裏がジンジンします。秋、冬、春、と靴下で保護されていた足の裏が直接サンダルに触れた刺激のせいです。軟弱な足の裏です。でも三日目くらいからは素足の快適さを満喫して、ほんの少しの野生を楽しんでいます。夏の間に足の裏の皮は少しだけ厚く成長 (?) するのかな。
きょう紹介するのは『優しい地獄』という本です。ルーマニア人のイリナ・グリゴレさんが日本語で書いたエッセイ集で、発売されたばかりです。イリナさんは「水牛」で連載しているので、長谷部さんはよくご存知だと思います。
10年ほど前、偶然出会った日に、イリナさんがルーマニア語訳の『雪国』を読んだことがきっかけで日本に行こうと思ったという話をききました。なぜ『雪国』なのかと、とても不思議に思いましたし、そのほかにも日本語との出合いとして、おもしろい話があったので、「そういうの書いてみない?」と言ってみました。なによりも私が読みたいと思ったからです。こういうとき、「水牛」という場を持っていることは重要です。書いてもらえたならすぐに掲載できるから。彼女は「書けるかなあ」と、ためらいがちに言いました。私は「書ける!」と断言しました。すると、これも偶然なのですが、その会話をかたわらで聞いていた、岩波書店の「図書」を編集していた人が、「それ、「図書」に書いてみませんか?」と言って、さらに追い討ちをかけてくれたのです。実際に「図書」にイリナさんの最初のエッセイ「生き物としての本」が掲載されたのは2014年9月のことでした。「図書」で何度か書いたのち、水牛で連載を続けて、ようやく一冊の本になりました。
イリナさんは1984年生まれ。2006年に初めて日本に短期留学して、その後2009年に国費留学生としてふたたび来日し、それからずっとこの国で暮らしています。1984年に生まれたということは、生まれた当時はチャウシェスクの独裁政権下。チャウシャスクが1989年に反政府勢力によって銃殺されてからは、その後の混乱を生きてきたということです。また、1986年にはチェルノブイリ原発事故があり、その影響も受けています。ルーマニアはウクライナと国境を接していて、チェルノブイリとの距離は案外近いのです。これら二つはある日時におきた大きな歴史的事実ですが、その日時の出来事だけにはとどまらずに、まだ10歳にもならなかったイリナさんのその後に大きな影響を与え続けていて、それはこの本に流れているひとつの主題です。
私がもっとも興味をもったのは、イリナさんと日本語の関係です。イリナさんを日本に向かわせた最初のきっかけが『雪国』という小説だったこと、さらに、ルーマニア語では書けないことが日本語では書ける、日本語は自分の身体に合っていると、彼女が言うのをきいて、彼女の苦悩だけでなく、小説や日本語の可能性を考えました。日本語は日本人だけのものではなく、実は誰にとってもひらかれている言語だと実感します。この本の編集スタッフとして加わり、イリナさんが書いたテキストをできるだけそのままにすることを第一の方針としたことは、おそらく間違っていないと思います。
一冊の本はそのときの著者の到達点という印象が強いと思うのですが、イリナさんはむしろこの本から出発するのだ、と私は考えています。ぜひ読んでくださいね。
2022.7.21
八巻美恵