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長谷部千彩さま

夏から秋への季節の移り変わりが、慌ただしく日替わりで進んでいますね。涼しい日の次にまた暑い日が戻ってきても、見上げれば空にはすでに秋の雲ばかり。返信おそくなりました。

『片づけたい』のことを読んで、いやいやながら、また思い出しました。暑いときにはできないので、涼しくなったらやらなくては、と思い続けている片づけのことを。荷物も本もいくらふやすまいと思っていても、定住している限りはふえ続けるので、片づけは生きている限り片づかない問題だとあきらめています。断捨離したいという気持ちについなりますが、ほんとうはゴタゴタしてるのは悪くはない環境です。だから片づけられない。
ネットでたまたま見た「「ゴキブリのいない家」を作るための、対策とポイント5つ」という記事によると、5つのポイントは「隙間を塞ぎ、侵入させない」「エサになるものを減らす」「こまめな掃除」「植物、段ボールを持ち込まない」「水分を放置しない」ということのようです。どれも私にはできないことばかり。でもしばらくゴキブリが部屋のなかを歩いている姿は見ていないし、果たしてゴキブリがまったく出現しない家がすばらしいのかどうかも疑問です。こちらが無防備だと、案外寄ってこないのも不思議。清潔すぎるとか片づけすぎているとか、あまり快適でないのは、きゅうくつだから。適度というのは人それぞれなのに、極端に清潔で片づいていることが最高だとされているのは納得のいかないことです。

アリ・スミスの『春』に続けて『夏』を読みました。『夏』は四季四部作の最後の巻なので、『秋』『冬』『春』の登場人物がまた出てきて、彼らの意外なつながりが明らかになっていきます。それは連作の長編の楽しみのひとつです。以前、キェシロフスキの連作映画『トリコロール三部作』と『デカローグ』の全作を公開時に映画館で観ました。ある作品の主人公が他の作品のどこかに、短く、でも必ず出ているのです。ときには、ただの通行人として。ひとつの作品として完結しているけれど、さらにそこから増殖していくようなおもしろさでした。
入り組んだストーリーを短くまとめることはできないけれど、『春』の忘れがたいリルケに続いて、『夏』にもやはりリルケの名前が一か所だけ、印象的に出てきます。ハンナという女性はひとりで赤ん坊をかかえているのですが、ひとりなのも「素寒貧で壊れている」のも戦争のせい。赤ん坊は滞在している部屋に置いてあるたんすのいちばん下の引き出しをベッドにして眠っています。「彼女は子供が息をし、眠ったまま姿勢を変えるのを見る。リルケによれば、子供を産むということは既に子供に死を与えることでもある。灰色に変わったパンのかけらや美しいリンゴの芯の部分を子供の口に入れるように。」

ハンナの兄はダニエルで、『秋』では高齢になって老人ホームで眠り続けていました。『夏』で登場するロバートという思春期の少年は、度を過ごした悪さをする問題児ですが、アインシュタインが好きで、それが共通の話題となって、年寄りのダニエルとの会話が成立します。ダニエルは話しているうちにロバートが妹のハンナだと思い込んでしまい、なぜ男の子のかっこうをしてるのかといぶかしがる。しばらくあとにロバートはダニエルに手紙を書きます。「あなたの妹より」と。思春期の問題児は老人ときちんと会話できるし、やさしいのです。母親や姉との会話で、彼はこんなふうに言います。「あの人は一瞬僕のことを誰か知り合いの人と勘違いした。それだけのことさ。女の子か男の子は関係ない。アインシュタインの話をしたときも頭は混乱してなかった。」彼はさらに言います。「それに僕らは粒子がどんなふうに出会うかという話もした。つまり、二つの粒子が互いに出会うと両方が変化する。そしてその後は、粒子が互いの近くでないときにも、片方が変化すると、もう一つのほうも変化するって話。」これはアインシュタインの理論物理学の話題ですが、「二人の人間が互いに出会うと両方が変化する。」と言い換えてみると、それこそがこの小説なのかもしれません。単純にしすぎているかもしれませんが、ひとつのテーマではあると思います。考えてみると、長谷部さんと私とがこうして文通していることだって、「二人の人間が互いに出会うと両方が変化する」現実のひとつじゃない?

2022.8.30
八巻美恵

八巻美恵 YAMAKI MIE 編集者  suigyu.com