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長谷部千彩さま

お彼岸の前に、友人と連れ立って、昨年亡くなった友人のお墓参りに北鎌倉のお寺まで行ってきました。亡くなった友人とは大学に入学したその日になぜか親しくなって、でもあまり密着しないでずっとつきあってきました。子どものころから歳をとるまでを知っている数少ない友人です。病気になって死期が近いといわれてから、自分の葬儀を彼女らしく完璧にプロデュースし、戒名まで自分で決めて、悲壮感なく旅立っていくのを見送りました、お墓も彼女が自力で建てたもので、生前に何度かその在処を聞かされていました。死んだらお参りに来てねということだと思い、夏のはじめにひとりで行ってみました。こじんまりとした墓所は周囲を岩と樹木に囲まれた、自慢するのも当然なすばらしい環境でした。

連れ立っていった友人は、葬儀に参列できなかったため、気持ちの整理がつかないままだというので、案内したのです。お参りのあとはお昼ごはんを食べながらあれこれ話して、楽しく過ごしました。コロナのときに人と会う機会が減ったので、わたしは思い切って髪を染めるのをやめ、それ以来、白が多めのグレイ・ヘアです。友人はきちんと黒く染めているのですが、髪が黒くても、最近は電車やバスで席を譲られるようになったのよ、と言うのです。わたしたち、老いが滲み出るお年ごろなのね、とそんなことを話しながら、心の底から笑ってしまったのはなぜでしょう。

ちょうどミラン・クンデラの小説『無意味の祝祭』(西永良成訳 河出書房新社 2015)を読んでいるところでした。おしまいに近いところで登場人物のひとりが言います。「ねえ、きみ、無意味とは人生の本質なんだよ。それはいたるところで、つねにわれわれにつきまとっている。残虐行為、血腥い戦闘、最悪の不幸といった、だれもそれを見たくないところにさえも無意味は存在する。これほど悲劇的な状況のなかでも無意味を認め、それをその名で呼ぶには、しばしば勇気を要する。しかし大切なのは、それを認めることだけではなく、それを、つまり無意味を愛さなくてはならないということだよ。……無意味は叡智の鍵、上機嫌さの鍵なんだから」
お墓そのものやお墓参りというものに思い入れがなく、むしろ意味がないと思っているわたしですが、気のすすまないお墓参りをきっかけに、死んだ友人とまだ生きている友人と過ごし、その無意味を無邪気に機嫌よく楽しんだ一日になったと思います。『無意味の祝祭』、いいタイトルですよね。

亡くなった友人に最後に会ったとき、わたしがいつまでもぼんやりと生きているようだったら、適当なときに迎えに来てほしいと、案外本気で頼みました。わかったわ、という力強いこたえが瞬時にかえってきたので、願いは叶うはず。

2024.9.24
八巻美恵

八巻美恵 YAMAKI MIE 編集者  suigyu.com