行けなくなったの。と、友人が差し出したピンクの前売券を譲り受けると、渋谷に向かった。
渋谷の坂の名前を覚え目的地に迷わず着けるようになった頃、道玄坂ザ・プライムにあるシネセゾン渋谷の存在を知った。200席少しという座席数が意外なほど館内はゆったりしており、ミニシアターと呼ぶのは不相応な気がした。
チケットのデザインをひと目見ただけで、上映館はシネセゾン渋谷に違いないと思った。京都で映画館通いを始めた頃、チラシは貴重で手軽な情報源で、凝ったデザインのものは大切に保管し、度重なる引越しを耐え、時に殺風景な室内の彩りになり、そうして手元に残ったチラシのうち多くの映画は、東京ではシネセゾン渋谷で上映されたと後で知った。「黒い十人の女」やゴダールのリバイバル上映が古い映画の再発見というより、目利きによる解説つきで新しい映画のように紹介されムーヴメントを生んだ、その源流はシネセゾン渋谷だったことを。
ジャック・ドゥミの代表作が宝物にしたくなるようなデザインのチラシで宣伝され、シネセゾン渋谷で上映されることに感慨を覚えながら着席すると、隣席は7、8歳ほどの少年。母親に連れられて来たらしい。港町ロシュフォールに暮らすカトリーヌ・ドヌーヴとフランソワーズ・ドルレアック、実の姉妹が演じる双子姉妹は、パリでの成功と運命の恋を夢見ている。ハリウッドから「雨に唄えば」のジーン・ケリー、「ウェストサイド物語」のジョージ・チャキリスを招いて撮られた「ロシュフォールの恋人たち」。物語はミシェル・ルグランの音楽に乗り、衣装や美術は砂糖菓子のような西洋の色彩にあふれ、至福とはきっと、この映画のこと。
何度も鑑賞しながら不思議に思っていた。冒頭、キャラバンは重々しいカーキ色の軍服を着た隊列の行進とすれ違う。港町に似合わないコートを着込んだ老人は殺人鬼だった。それらの存在は間違って落とされた暗い色の絵の具のように、独特の美意識で隅々まで統制されたスクリーンを濁らせる。歌って踊って恋をして、弾む物語に彼らは不必要ではないのか。そんな疑問がこの日、解けた。
耳から目から侵入するカラフルな刺激に心を奪われ気づかなかったけれど、これは反戦映画なのだ。数多あるフランスの港町からロシュフォールを選んだのは、軍港として栄えた歴史ゆえか。声高に拳を突き上げるかわりに、美しい姉妹に花飾りの帽子をかぶらせ、「心が凍りついたら、愛しなさい」と歌わせる。ジャック・ドゥミは戦争に反対する唯一の手段を熟知しているのだ。
灯りがつくと、「どうだった?」と尋ねた母親に、少年が「とっても面白かった!」と答える声が聞こえてきて、幸福な余韻は倍増した。「どうして男はすぐにホテルに誘うの?」なんて歌詞があったからちょっとひやっとしていたのだけれど。少年は大人になったら「ロシュフォールの恋人たち」を懐かしく思い出すだろうか。それを観た映画館のことも。
シネセゾン渋谷
1985年開館、2011年閉館