四方田犬彦『あんにょん・ソウル 韓国日常雑貨事典』若山貴史

『あんにょん・ソウル 韓国日常雑貨事典』
四方田犬彦 編・著(洋泉社 1986年)

 80年代東京のガイド・ブックを時々古本屋で買うことがある。自分の幼少期の街の記憶を思い起こしたいというのもあるのだが、個人商店の多さ、トレンディとされていたスポットの儚さ、そしてレストランのバリエーションの少なさ...と、「今」との違いが露になった部分にとても惹かれてしまうのはその地点から現在までの、変化のダイナミック・レンジがそのまま自分の生きた数十年間という風に実体を伴っているように感じるからかもしれない。自分の記憶の中に街の変化が含まれ、街の変化の中に自分もまた含まれるように思えるということで、何だか「街の揺藍の中」にいるかのような、不思議と甘やかな気分になる。

 「あんにょん・ソウル 韓国日常雑貨事典」は巨大なソウルの街を形作るあれやこれやを、刊行された86年ごと真空パックのように捉えた奇跡的な名著だ。「大きな時間を作り上げるのは目に見えないほどに小さな時間の集積であり、それを欠いたとき、大きな時間はただの観念の形骸に終わってしまう」という冒頭の言葉通り、歴史的なパースペクティブからのみ捉えられがちな激動の時代のソウルを、あくまで生活に根ざした切り口からグラフィカルに記録し提示していく。インスタント・ラーメンのパッケージ(ノグリやほとんど今とデザインの変わらない三養ラーメンが既にある)に始まり、食堂のさまざまな料理、化粧品におもちゃ、街の看板に映画に流行歌に...と、都市生活の所以たる「複製化された映像」の織りなす、ありのままの86年の事物や風景。当時の西側諸国と変わらないものや場所もあれば、昭和30年ぐらいの日本のようなパッケージや風景もある。そしてそれらのいずれにも、どこか東京とは別のところから来た熱気というか、ワールドワイドなダイナミックさ、がある風に感じられる。そういえばこないだ読んだ本で哲学者の安倍能生は、日本文化の特殊さ(=地方的)に比較して朝鮮文化は西洋人に近く、言い換えると「一般的」であると(日韓併合期の)32年に指摘していたのだ...

 そんな民主化前夜・86年のソウルのただ中を自分はもちろん生きたわけではなく、従ってこうした古い本や図録の中でしかその時代の風景を見て知ることはできない。しかし昨年、人生初めての海外旅行で同地を訪ね、旧市街を中心に散々歩いたときに「この街の今」が、本で描かれている86年を当然含んでいて、人が生きた記憶が、街に地層のように折り重なっているということを強く感じたのだった。本の中で「最新のヒットナンバー」として紹介されていた전영록や이선희をいま聴くと、東京の追憶と似た”甘やかな”気持ちが確かに蘇ってくる。ソウルの街が経た86年も95年も08年も、自分が恥や初恋や挫折と共に生きたそれらと確かに同じ時間なのだ。