第3回 口紅と女

日比谷駅、証明写真ボックスの外にいた。パスポート更新のため、撮りたくないが仕方ない。証明写真の出来上がりを待つ時の、緊張と忌忌しさの混じる感情は、いったい何だろう。自分の顔の気に入らない箇所など、とっくに諦めのついたはずなのに。

紙の落ちる音に手を伸ばし写真を取り出すと、10年前のパスポートと見比べる。なるほど時間はこう外見を変えるのか。他人事のように眺め、現在のこの女の、顔に生気が足りないことが気になった。これまで唇の血色が良いことを理由に、口紅を塗る習慣がなかった。あれは若さがもたらす血色だったと、失われて知る。口紅を買わなければ。

短篇集『口紅のとき』は、角田光代の文章に上田義彦の写真が添えられ、6歳から79歳まで、ひとりの女の人生と口紅のかかわりが綴られる。鏡の前で口紅を塗る母親をこっそり覗き見る少女期。恋人から口紅を贈られる思春期。生活に追われ口紅どころではない中年期。

塗っても塗らなくても、塗るならば色ごとに、口紅は物語を含んでいる。女の生き方はさまざまだから、主人公と私の口紅とのかかわりに、重なるところも重ならないところもあった。けれど、12歳の主人公が経験した祖母を葬るための口紅についての一篇は、私の遠い記憶をくっきりと呼び起こした。

ふたりの祖母は性格も生活も真逆だった。山奥で暮らす母方の祖母は素朴で、化粧した顔を見たことがなかった。棺の中の祖母は白粉を塗られ、唇は紅かった。見慣れないその顔に、生まれて初めて人を葬ることの意味を知った。街で暮らす父方の祖母は華やかで、いくつになっても家の中でも口紅を塗り、ようやく素顔を見た時には死が迫っていた。棺の中の祖母は白粉を塗られ、唇は紅かった。見慣れたその顔を目に焼き付け、私は悟った。口紅を塗らない女、塗る女。どんな女も人生の最後は、他人に口紅を塗られ葬られるのだ。

映画『海辺の生と死』は戦時中、加計呂麻島での男女の出会いが描かれる。島尾敏雄、島尾ミホをモデルとするが、映画ではそれぞれ朔、トエと名前を与えられている。忘れがたき小道具として、口紅が登場する場面があった。

トエはドラマティックな女である。俯瞰しながら物語をかたち作る演出家の役割と、中心で物語を演じる女優の役割を往復しながら、自らの愛を力強く推し進めてゆく。相手役を渇望していたところに、ふらりと朔が現れ、お互いの隙間がぴたりと符合する。トエが朔の腕を強引に掴み、ふたりの愛の物語が転がってゆく。

特攻隊に属する朔の出撃を知ったトエは井戸水で身を清め、喪服に身を包み、鏡に向かい指で口紅をさす。島の女らしく化粧っ気のなかった唇が突然、真紅に彩られたことに目を奪われ、次第に違和感を覚えた。喪の装いにくっきりと派手な唇はいかにも不似合いである。何のつもりの口紅なのだろう。

今生の別れかもしれない夜、朔にすがるトエは、海辺を舞台に見立て、その中心を熱く支配した。死にゆく朔のため、いち早く喪服を着ただけではなく、その晩自分も死ぬつもりで、前のめりに死化粧まで自ら施したのだ。他人に塗られるはずの人生最後の口紅を、自分で塗る女。振り返ってみれば鏡に向かい口紅をさす仕草は、クライマックスを演じる前の、楽屋での女優のように儀式めいていた。

生気の足りない証明写真でパスポートを申請した後、口紅を手に入れた。知らないうちに進化していた口紅は、荒れやすい私の唇を滑らかに潤しながら色づけた。

トエのようなドラマティックさに欠ける冷徹な女だから、死の前に自ら口紅を塗るなんて芝居めいたことは、するはずもない。素朴な祖母と華やかな祖母の血は身体を半分ずつ流れ、さらに年を重ねた私がどちらに似るかは、わからない。今朝も私は生きていて、キャップを外し、するすると口紅を塗った。他人に塗られるには、まだ早い。自分の手で。

Book info :
『口紅のとき』著:角田光代 写真:上田義彦 求龍堂 2011年
Movie info :
『海辺の生と死』越川道夫監督 2017年