旅の記憶、映画の鍵
維倉みづき

第九回 ミツバチのささやき

10月。スペイン最南端の鉄道駅アルヘシラスから、朝一番の電車に乗る予定を立てていた。駅から徒歩5分ほどのところに宿をとり、早朝、起きてカーテンを開けると、外はまだ真っ暗。予定通り身支度を整えるも、見知らぬ土地で暗い道を一人で歩くことに恐怖が募った。バックパックを背負い、防犯ブザーを握りしめ、意を決してホテルから走り出る。駅に駆け込んだ時には、すっかり息が上がっていた。

電車が走り出すと、旅が予定通り進んでいることに安心したのか、睡魔に襲われた。車掌が切符を確認しに来た声で目を覚ます。車窓からは、遠くの山が朝日に染まっているのが見えた。目前に広がる平原には、まだ日が差しておらず、朝霧が漂っている。霧に覆われた白っぽい塊が、眠る羊のように見えたが、よく見ると無造作に転がる岩だった。

映画『ミツバチのささやき』は、1940年頃のスペインの農村を舞台にした、6歳の少女アナの物語。人々が外套をまとう季節、村に巡回映画が到着し、アナと姉イサベルは1931年のアメリカ映画『フランケンシュタイン』を鑑賞する。アナは、銀幕の中で自分と同じ年頃の少女メアリーがフランケンシュタインと遊び、彼に殺される姿を、食い入るように見つめる。

その夜、アナは映画の結末についてイサベルに質問を重ねる。イサベルは「フランケンシュタインと少女が映画の中で殺されたのは嘘。フランケンシュタインは精霊で身体がないので、死ぬことはない。村の外れに住んでおり、夜になるとフランケンシュタインの姿をして現れる。友達になるといつでも話をすることができる」と告げる。姉の作り話を信じ、翌日から村外れの廃屋で精霊フランケンシュタイン探しを始めるアナ。そんなアナに対し、イサベルの悪戯はエスカレートしてゆく。

最初は姉の後ろを追いかけていたアナも、徐々に姉の思惑から抜け出し、精霊フランケンシュタインに会うためにはどうしたら良いか自分で考え、行動するようになる。アナが暮らす村は平坦な野原に囲まれ、単線の鉄道と未舗装の道が地平線まで続く。広い空の下、放課後に誰もいない野原を突っ切り、廃屋訪問を繰り返すアナ。夜もこっそりベッドを抜け出し、月明りを頼りに外へ出る。彼女の黒目がちの大きな瞳は、少しづつ意思の強さを湛えてゆく。

ある日、アナは廃屋で負傷した脱走兵が横たわっているのを発見する。彼をフランケンシュタインに重ねたのか、アナは差し入れをするなどして負傷兵を介抱するも、彼は程なくして卒然と姿を消してしまう。アナは彼を探して一人、夜の森を歩く。

明け方、アナの村を囲む空は360度、穏やかな朝焼けに染まる。その様子は、私にアルヘシラス発の電車から見た秋の朝霧を思い出させる。私はまるでアナの村を通る電車の車窓から、野原を一人駆けるアナの姿を目で追っている気分になる。私の旅にアナの姿が溶け込み、記憶が物語の世界に広がってゆく。