最終回 家を買う。(2000年/2010-11年)

文・写真 小梶嗣

最終回 家を買う。(2000年/2010-11年)


 ぼくたちにとって人生最大の買い物は【家】だろう。
 それが日本人特有のことなのかはわからないが。
 今回の僕的買い物は「家」である。

 かくいうぼくは人生で二度ほど家を買った。
 最初の購入は“20世紀の最後の年”の2000年4月のことだった。
 場所はJR目黒駅に近い、丘の上に建つ中古マンション。

 もともとは友人のワタルさんが数年かけて探し歩いた末にたどり着いた1970年完成のヴィンテージ物件だった。
 警備は24時間常駐。ゴミ置き場は各フロアに設置。当時は全館にセントラルヒーティングが稼働していた。また、すでに閉鎖となっていたが、屋上にはプールまであった。
 売り出し当初は、いまで言う「億ション」的な超高級マンションだったと思う。
 実際、住人は芸能人、医師、弁護士、大企業の経営者が多かった。
 とはいえ、築30年を越える中古マンションである。
 管理費は高いが、ふつうのサラリーマンでも購入できる価格となっていた。
 ワタルさんは物件を購入し、一度完全に取り壊して、一から室内を作ったのだった。
 そして、ぼくは4月1日に彼の新居を見て驚き、その日のうちに不動産屋さんに空き物件を探すようお願いした。
 カミさんは言った、「今日はエイプリルフールだよね?」

 購入したのは7階の70平米弱の物件だった。
 ぼくも友人と同じように一旦スケルトンにして、室内を組み直した。
 床材は無垢のベイマツ。家具はすべてシナベニア材を使い、作りつけにした。
 お金をかけたのは厨房。アイランドキッチンを大工さんに作ってもらい、コンロはフランスのロジェール、食洗機はドイツのミーレをビルトインしてもらった。天井からはステンレス製の排気ダクトを吊るした。
 このリフォームは“仕切りを可能な限り取り去る”という工事だった。
 そのため、ぼくら家族四人は「大きなダイニングキッチン」に暮らすことになった。

 住んでしばらくして、若い住民がよほど珍しく目立ったのだろう。
 友人とぼくはマンションの自主管理組合の理事となった。
 そこで、ぼくたちはいきなり“集合住宅の末期”に立ち会うことになった。

 月に一度、金曜日の夜に行われる理事会は、さまざまな修繕に関する議論で深夜までおよんだ。
 工事業者は適正か。コンペの必要性の是非。次の大規模修繕はいつ行うべきか、などなど。
 そんなある日、某デベロッパーからタワーマンション建て替えの提案が届いた。
 いまの建物は老朽化しているので、一度壊して、巨大な高層マンションに建て替えるべきだ、というのだ。
 ぼくとしては、このマンションに住んでまだ数年しか経っていない。
 だから、時期尚早だと感じた。
 この70年代特有のデザインは、なんとなくル・コルビジェの「ユニテ・ダビタシオン」(マルセイユ/1952年)を想起させ、大好きだったのだ。

 だが、そこからが大変だった。
 “合意形成”ができないのだ。
 あるひとは「そろそろ建替え時期だと思っていた。建替え後は持ち分比率もあがるし、最高の提案だ」と言った。
 また、あるひとはこう言った。
 「このマンションが建つ前に、計画がすごく気に入って購入した。“終の住処”にしたいと思って。わが家には子どもがいない。もう年齢も高齢。新しいマンションが建つ前に死んでしまう。やめてほしい」。
 両方とも理解できた。

 二度目の買い物は2010年10月だった。
 今度はまず土地を買い、上物を建てることにした。
 それも“来るべき大地震”にも耐えうる鉄筋コンクリートの建物を。
 数年前に知り合った中国人実業家は、ぼくの質問にこう答えた。
 「山手線の内側は世界的にみてもテッパンですヨ。私はね、目白と秋葉原を線で結んで、その下の部分の物件を買っているの」

 買ったのは新宿区四谷の小さな土地だった。
 港区白金高輪の土地はあと一歩のところで、買い逃してしまった。
 渋谷区富ヶ谷の土地は地盤工事にお金がかかるようだったので見送った。
 庶民でも買うことができる“狭小の土地”は争奪戦だった。

 「四谷」という土地には以前から思い入れがあった。
 子どもの頃、ラジオっ子だったので、ぼくにとっては“文化放送がある場所”だった。
 いまは浜松町に引っ越してしまったけれど、文化放送の社屋は元教会とのことだった。
 だからだろう、上智大学のキャンパスがあることとあいまって、この辺りはなんとなくエキゾチックな感じがした。

 家のイメージは、土地を購入した瞬間にアタマの中にできていた。
 クリエイティブ好きなので、もともと「建築」には興味があったのだ。
 東孝光「搭の家」(1966年)
 安藤忠雄「住吉の長屋」(1976年)
 精神としては藤森照信。

 設計は新進気鋭の建築家Mさん。協議しながら、ふたりで作りあげていった。
 施工は有名建築家の坂茂や妹島和世、西沢立衛らが個人邸宅を手がけるときに使う建築会社Hにお願いした。ここはどんな要求にも応えてくれる優れた技術集団だった。
 結果、東日本大震災ものりこえ、12月あたまに“屋上つき鉄筋コンクリート三階建てのわが家”が完成した。

 ぼくたちはこの家に7年間住んだ。
 最高の住まいだった。
 四谷というロケーションもよかった。交通の便がいい。第一都会だった。
 迎賓館に向かう緑豊かな道路。
 駅前近くには、角打ちの名店「鈴傳」、ハイクオリティな鮮魚店「金駒」、お稲荷さんと干瓢巻で有名な「志乃多寿司」の分店、佃煮の「有明家」、鯛焼きの名店「わかば」など、たくさんの老舗があった。
 つまり、ここは東京に残る“江戸”だった。

 先ほどふれた、“精神としての藤森照信”について少しふれたい。
 ご存じの通り、藤森照信は1946年生まれの建築史家、建築家。1985年に東京大学生産技術研究所の助教授となった。
注目されたのは、その頃から赤瀬川原平、南伸坊らとはじめた「路上観察学会」での活動だった。彼らはカメラ片手に街を散歩し、面白い物件を発見しては撮影した。
 それは藤森の仕事そのものだった。彼はこう言っている。
 「ずいぶん長い間、見ることを仕事としてきた。有名な建物を訪れてあれこれ考え、人知れず街に埋もれた西洋館を探し出して由来を調べ、そうした思考や知見を語ったり文にすることを職業としてきた。プロの見る人なのだった」
 これは著書『野蛮ギャルド建築』の「自作を語る」の冒頭部分である。
 ぼくはこの文章が大好きで、たぶん100回は読んだのではあるまいか。
 ここで彼は「“手強い相手だった”と今でも背筋に寒いものを覚えながら思い出す建物」の頂点として、チベットのラサにある【ポタラ宮】をあげる。
 続いて、自らの足と目を労して出会った“心に染みついて抜けない無名の建物”として、【ポルトガルの石の家】、【信州の布引観音】、【みちのくの芝棟】をあげる。
 つまり、彼はこの文章で“自分の好き”を言語化しているのだ。

 とはいえ、最も感心したのは、“日本の近代建築に関する分析”だった。
 藤森は近代建築の三大材料は“鉄、ガラス、コンクリート”であるとした上で、1980年代中盤あたりからの表現上の傾向として、「コンクリートからガラスへの移行」があったと指摘する。
 そして、その“ガラス建築”というトレンドを作った建築家として、槇文彦、原広司、谷口吉生、伊東豊雄らの名をあげ、彼らを「白派」と呼んだ。
 一方、「同じ金属を使うにしても荒々しく使うし、打放しコンクリートは薄い壁ではなくて重厚なカタマリとして使う」ような、建築家たちを「赤派」と名付けた。
 その開祖はもちろんル・コルビジェ。
 彼らの本質は白派の抽象性に対する“実在性”にあるという。
 日本においては磯崎新や石山修武らの名をあげた。ふむふむ。
 その上で、自分が建築家としてやっているのは赤派であり、赤が濃くなりすぎて黒味がかかった赤派であると宣言する。
 確かに、彼の「神長官守矢資料館」「タンポポハウス」「ニラハウス」「秋野不矩美術館」などの作品は、どれも“地域固有な文化や土着の造形に強い共感”を示している。

 数年前、ぼくは静岡の秋野不矩美術館を見に行った。
 それは低い山の上にあった。
 坂道をのぼりながら、ぼくは美術館を見上げてみて驚いた。
 そこにはポタラ宮があったのだ。

 ぼくがこの「自作を語る」という文章を読むたびに感動するのは、藤森照信の“建築家らしからぬ、アマチュア的な姿勢”である。
 彼はそもそも建築家ではなかった。
 建築史家として長年建築を見続けていたら、自分でも作りたくなって建築家をはじめたのだ。
 作り方も独特だ。藤森は建物の完成にいたる過程の中で、施主や友人たちと「縄文建築団」なるものを結成し、建物作りに参加させるのだ。
 自分が住む家は“太古の昔から自分の力で作ってきたのだ”と、施主に思い出させるかのようだ。
 よく考えると、ぼくが家を買った理由も、藤森照信と同様、「自分でも家を作ってみたくなった」からだった。
 そんなことを書くと、「ふざけるな」と思う向きもいるだろう。
 家は趣味や工作ではないのだから。

 家を“ひとつの買い物”として考えたとき、それは決してカジュアルな買い物ではない。
 ローンを30年以上組まなければ買えないモノなんて、尋常ではないから。
 一方、買った瞬間に価値が半減する、日本の上物に対する評価もどうかしていると思う。
 いや、考えると一軒目のときは“社会的な常識”に囚われていたような気がする。
 サラリーマンとして家を買うならば、ローンのことを考えると35歳が上限ではないかと考えていたのだ。

 だから正直、二軒目の四谷の家を売ったとき、ホッとした。
 肩の荷がおりた気がした。

 家を購入して、一日も早く借金を返済して“自分のもの”にしたいという人がいる。
 だが、それは現象的には“嘘”ではないか。
 というのも、例えば、分譲マンションのローンを完済しても、所有者は毎月の管理費と大規模修繕積立金と固定資産税を払い続けることになるから。
 一戸建てもそうだ。十年も経つと、建物のどこかが故障してしまう。そこを手直しするのはそれなりのお金が必要だ。そして一生、固定資産税を払わなくてはならない。
 だから持ち家も、結局は“賃貸住宅と同じ”なのでないかと思うのだ。

 極論だが、白洲正子が暗に言うように、“すべてのモノは永遠に所有することはできない”。
 ひとの命の方が、大抵のモノの寿命よりも短いからだ。
 その意味で、すべてのモノは借り物であり、すべての家は借家と言えるのではないだろうか。
 そもそも「買い物」ってやつは、買いたいという欲望がなければ成立しない。

 そんな中で、家という買い物は、そんな物欲とはちょっと離れた“20世紀後半の常識の中にある”ような、気がする。

 21世紀になり20年近くが経った。
 デジタルトランスフォーメーションにより、いろいろなことが変わりはじめた。
 シェアリング・エコノミーについても、だいぶ理解されるようになってきた。

 2018年4月。
 四谷の家から離れるとき、長男は独立することになった。
 いい機会なので、“いらないモノ”を全部捨てることにした。
 それは“2トントラックいっぱい”になった。
 ぼくは回収業者の社長に代金を払いながら質問した。
 彼は笑って答えた。
 「だいたい女性がいるお宅の場合、ゴールドや宝石が見つかりますね。あとヘソクリの現金。ハハハ」。
 ぼくは言った、「それはチップということで!」

 売ってしまった家を背にトラックを見送りながら、長男とぼくはなぜか手を振っていた。
 アタマの中で、「サヨナラ」という言葉が浮かんだ。

 ぼくは何にサヨナラしたのだろう。

 (※本連載は今回で終了いたします。またいつか、どこかでお目にかかれましたら。)

文・写真 小梶嗣