第10回 【巨泉×前武 ゲバゲバ90分!】のDVD(2011年発売)

文・写真 小梶嗣

第10回 【巨泉×前武 ゲバゲバ90分!】のDVD(2011年発売)


 ひとは“なにかに喜び、怒り、哀しみ、楽しむ”という自由がある。
 だが、その感情を引き起こすトリガー(引き金)は人それぞれだ。
 ぼくの喜怒哀楽は、【子どもの頃に見たテレビ】によって形成されたのではないか、と思っている。

 2020年のいま、新型コロナ禍が人類を襲っている。
 全世界の死者は40万人を超えた(6月8日現在)。
 このウィルスは新型インフルエンザと違って、肺炎を引き起こすだけでなく、血管内に血栓を作り、命を奪っていく伝染病のようだ。
 恐ろしい。

 そんな中、みんなが共通して思っていることがある。
 こころの底から笑いたい!という気持ちである。

 外出自粛の影響で仕事がなくなり、生活が立ち行かなくなっている人びとがいる。
 罹患してしまい、病室に隔離されて病と戦っている人びとがいる。
 補償が少ないため、ずっとお店を開けてがんばっている人びとがいる。
 防護服や医療用マスクが不足している中、必死に治療にあたっている医療関係者がいる。
 ライフラインを守るため、交通機関を動かし、荷物を運ぶためにトラックを運転し、食料品などを販売し続けている人びとがいる。

 自分は、というと、本当に無力で、ゴールデンウィーク中は自宅のなかで過ごすしかなかった。

 “自宅軟禁のようなロング・バケーション”を迎えるにあたって、ぼくはネットで【巨泉×前武 ゲバゲバ90分!傑作選 DVD・BOX】を手に入れた。
 ぼくの中にある“一番古いお笑いの記憶”を、この機会に確かめたかったのだ。
 それは、いま見ても面白いのだろうか?

 今回の“僕的買い物”はこの古いヴァラエティ番組のDVDである。

 結果はさておき。
 ご存じない方もいると思うので、『巨泉×前武 ゲバゲバ90分!』について説明しておきたい。

 この番組はいまから半世紀前、1969年(昭和44年)10月から1971年(昭和46年)3月まで断続的に続いた日本テレビの人気ヴァラエティ番組である。
 毎週火曜日の午後8時から9時半までの90分間放映されていた。

 番組構成は斬新で、冒頭にMCの大橋巨泉(1934-2016)と前田武彦(1929-2011)が漫才コンビのように向かい合い、時事ネタをトークする。それ以外は、ただただコントが連発していくというものだった。それも毎回100本以上!
 この番組を語る人が必ず口にする、ヒッピーに扮したクレージー・キャッツのハナ肇が「アッと驚く為五郎~♪」と叫ぶギャグや、「ゲバゲバ!ピーッ」と言って舌を出すヒゲおじさんのアニメーションは、コントとコントをつなぐブリッジ機能をはたしており、90分間に何度も差し込まれた。

 当時、ぼくは小学校にあがるかあがらないかであったから毎週見ていたとは思えない。
 けれど、まちがいなく何十回と見ていたはずだ。
 それは強烈な印象であり、小学生になってから毎週見ていたドリフターズの『8時だョ!全員集合』(1969-1985)がなんだか幼稚に思えた(後年、自分の中で醸成された贋記憶かもしれないが)。

 で、49年ぶりに見てみた。
 それは自分が想像していたものと“かなり風合いの違う”ものだった。

 その90分間には爆笑コントは少なく、“ナンセンスだとかシュールといった類のクールな笑い”にあふれていた。
 想像以上に辛口。ブラックコーヒーそのものだった。

 例えば、「もし…お巡りさんが強盗…だったら」というコントはこんな感じだ。

 <銀行にて>
 銀行員に扮した熊倉一雄と松岡きっこが窓口業務をしている。
 そこに警察官に扮したコント55号の萩本欽一が登場。

 萩本はいきなりピストルを突き出し、「金を出せ!」と叫ぶ(と同時に熊倉は逃げ出す)。
 手をあげておどおどする女性行員。

 今度はこん棒を持った熊倉行員が再登場。警官を背後から襲って撃退しようとする。

 が、気づいた萩本警官はすぐに振り返り、熊倉にこう言うのだ。
 「公務執行妨害で逮捕する!」
 「……」


 この番組が放送を開始した1969年はまさに「政治の季節」だった。
 1月には東大全共闘が本郷の安田講堂を占拠し、機動隊と衝突。若い運動家たちは10月の世界反戦デーに新宿で、11月には佐藤栄作首相の訪米実力阻止のため羽田空港で、それぞれ機動隊と衝突した。逮捕者はなんと計4,700人超。驚きの数である。
 イメージとしては、“民主化運動が激しさを増す香港”だろうか。
 それとも“人種差別事件により各地で抗議運動が起きている、いまのアメリカ”かもしれない。

 つまり、こういった時代だったからこそ、警官を揶揄するようなブラックなコントが成立したのだ。
 当時の一般的な市民からすると、若者たちの社会に対する憤慨はそれなりに理解できたし、ブラウン管に映し出された“機動隊による学生たちへの力による弾圧”は不快なものだったに違いない。

 ところで。
 この番組には手本となったアメリカのテレビ番組があったようだ。
 DVDの作品解説などによると、日本テレビの看板プロデューサー・井原高忠(1929-2014)は、米国NBCテレビのコメディ番組『ローマン&マーティンズ ラフ・イン(Roman & Martin’s Laugh-in)』(1967-1973)をヒントに番組を企画したという。
 YouTubeで見ればわかるが、蝶ネクタイにタキシード姿のダン・ローマンとディック・マーティンは大橋巨泉と前田武彦そのものだし、短いコントが速射砲のように続くところもそっくりだ。

 いまの「東京の笑い」を理解しようとするとき、この『巨泉×前武 ゲバゲバ90分!』は恰好の材料となる。

 と言うのも、ぼくは「大阪の笑い」を語る資格はないから。
 梅田グランド花月で、吉本新喜劇を見たことは一度しかない。

 誤解を恐れず、そして小林信彦にも見逃してもらって、「戦後の東京の笑い」を分析すると、先ほどの【アメリカのテレビショー】の影響のほか、【放送作家】、【寄席/浅草】、【ジャズ】、【演劇】という5つのキーワードに集約できると思う。

 『ゲバゲバ90分!』は、【放送作家】というキーワードも説明できる。
 MCの大橋巨泉と前田武彦はふたりとも放送作家なのだ。
 テレビの黎明期では放送作家がそのまま番組に出演してしまうことが多かった。巨泉、前武の他、青島幸男、永六輔などなど。
 彼らの笑いは“ウィットに富んだ毒のある”ものだった。
 それは先輩にあたる、「冗談音楽」の三木鶏郎(1914-1994)の影響だろう。
 三木は1954年、造船疑獄に対する辛辣な風刺をラジオ番組で放送し、のちに総理大臣となる佐藤栄作を激怒させた。その番組は打ち切りとなった。

 ちなみに、『ゲバゲバ90分!』のコントは40名以上の作家集団によって作り出されたが、三木はその監修者だった。

 3つ目は【寄席/浅草】だ。
 人気漫才師のナイツ・塙宣之は、自著『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』で、東京の寄席は“落語”が中心であることを具体的にこう語る。

 漫才師の足元を見ると、その力関係がよくわかります。東京の寄席に出るとき、僕らは靴下で舞台に立ちます。落語家に合わせて、靴を脱いでいるのです。ところが、関西の寄席に行くと逆になります。漫才師はみな靴を履いていて、落語家は雪駄履き。(中略)そう言われると、関西の漫才師のほうが動きが大きい気がしますね。東京の漫才師は、僕らもそうですが、いつも靴下なので、知らず知らずのうちに動きが大人しくなってしまうのかもしれません。


 実際、1960年代から70年代の東京で、日曜昼と言えば、牧伸二司会の『大正テレビ寄席』(NETテレビ/1963-1978)だった。また、『笑点』(1965-)は現在も続いている長寿番組だが、最後の大喜利が名物。やはり【寄席】なのだ。
 だからだろう、古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽(五代目)、月の家圓鏡(橘家圓蔵)など、60年代以降の人気テレビタレントは落語家が多かった。
 一方、【浅草】芸人からの人気タレントも多い。てんぷくトリオの三波伸介、伊東四朗、コント55号の萩本欽一、坂上二郎、そしてビートたけし。ナイツはこの系列に属する。

 【ジャズ】というキーワードは、ハナ肇とクレージー・キャッツやザ・ドリフターズを考えればわかる。彼らは“お笑いもできるジャズ・バンド”だった。
 コメディアンのフランキー堺はジャズ・ドラマーだったし、タモリは山下洋輔らジャズマンに発見されたトランペットも吹けるタレントである。
 これは芸能プロダクション「渡辺プロダクション」の力だろう。創業者の渡辺晋は元ジャズミュージシャンで、1960年代以降、『シャボン玉ホリデー』や『ザ・ヒットパレード』といった人気番組を自主制作し、成功させていった。

 「1980年代以降の東京の笑い」において、【演劇】というキーワードは重要だ。
 時代が進み、寄席も浅草もジャズも廃れていくなか、ひとつの流れを形成していく。
 東京では小演劇の人びとが“喜劇”という範疇を超えて、お笑いをやるようになった。

 コント赤信号はテアトルエコー養成所の出身。シティボーイズは劇団表現劇場。そのシティボーイズとコントユニット、ラジカル・ガジベリビンバ・システムを結成する、竹中直人は劇団青年座。形態模写のイッセー尾形も、オンシアター自由劇場に在籍。東京乾電池は同じく自由劇場を退団した柄本明らが結成した。
 また、久本雅美、柴田理恵らのワハハ本舗は、劇団東京ヴォードヴィルショーの若手団員により結成されたが、主宰者の喰始が『ゲバゲバ90分!』の作家だったことは特筆に値する。

 最後に、日本テレビ『お笑いスター誕生』(1980-1986)が果たした役割の大きさを指摘したい。
 この番組は、とんねるず、ウッチャンナンチャンなど、その後大活躍するお笑いタレントを輩出したが、それ以外にも、大竹まこと、きたろうらのシティボーイズ、イッセー尾形、松尾貴史(キッチュ)など、「あたらしい東京の笑い」を世に送り出した。
 それは審査員によるところが大きかった。
 審査委員長は桂米丸だったが、京唄子、牧伸二、三波伸介らに混じって、赤塚不二夫やタモリなど“ナンセンスでシュールな笑い”を評価する審査員がいたのだ。

 そして、この番組を企画したのも、井原高忠だった。

 『ゲバゲバ90分!』が終了してからもうすぐ半世紀。
 この国ではいま、“冗談のようなこと”が起きている。

 <国会にて/黒川検事長の賭け麻雀による「訓告」処分決定プロセスについて>
・5月22日 
 森法務大臣 「最終的に内閣で決定がなされたものを、私が検事総長に申し上げた」
 安倍総理大臣 「検事総長が適切に処分を行ったと承知している。その報告は法相からなされ、私も了承した」
・5月23日
 森法務大臣 「決定したのはあくまで法務省および検事総長だ」
・5月26日
 稲田検事総長 「法務省側から訓告相当と言われ、『懲戒処分ではないのだな』と思った」

 これはブラックジョークではない。
 新型コロナ禍で国民が苦しんでいる中、この政治屋たちのインチキぶりは何なのか。
 怒りと哀しみの感情しか沸かない。

 一日もはやく、コロナと共にこの茶番劇も終わらせて、こころの底から笑いたい、と願うのは、ぼくだけだろうか。

 ナイツの塙宣之が指摘するまでもなく、「大阪の笑い」と「東京の笑い」は本質的に違う。
 東京の笑いは、漫才にしても「コント漫才」なのだ。
 オードリーのように表面上は穏やかだが、予定調和を嫌い、圧倒的に自由な【ジャズ】なのだと思う。
 一方、「大阪の笑い」はM-1の歴代王者をみるまでもなく、「しゃべくり漫才」で【ロック】で、こころの底から笑えるものなのだ。
 とうてい「東京の笑い」は太刀打ちできない。

 でもね、と負け惜しみ気味に、ぼくは思う。

 本物の「東京の芸人」は絶対に桜を見る会なんかには行かないよ。
 そして、M-1グランプリを主催する会社のように、間違えてもお上から仕事なんてもらわないぜ。

 (表記以外の参考文献: 『エルビスが死んだ 小林信彦のバンドワゴン1961-1976』、『小林信彦責任編集 テレビの黄金時代』、ミズモトアキラ・堀部篤史『コテージのビッグ・ウェンズデー』)

文・写真 小梶嗣