第9回 銀座・並木座のポスター(1990年代)

文・写真 小梶嗣

第9回 銀座・並木座のポスター(1990年代)


 新型コロナウィルス禍が全世界で蔓延している。
 まだワクチンが開発されていない“死に至る病”である。

 日本では4月7日に東京を含む7つの都府県で【緊急事態宣言】が出され、その後、全国に拡大し、いまも一部地域では“外出自粛要請”が出されたままである。※

 そんな恐ろしい病で、よく知る人物が亡くなった。
 ドリフターズの志村けんである。
 この人気お笑いタレントの突然の死は、皮肉にもぼくたちから笑顔を消し去った。

 だが、ぼくにとって、もう一つショッキングな死が1月13日にあった。
 評論家の坪内祐三が心不全で急死したのだ。
 61歳の若さだった。

 という訳で、今回の“僕的買い物”は「銀座・並木座のポスター」である。

 【銀座・並木座】は1998年(平成10年)9月22日に閉館した、東京を代表する名画座だった。
 1953年(昭和28年)のオープン時には、越路吹雪がシャンソンを歌ったという。

 1950年代から1960年代の銀座は、まさに“東京の文化発信地”だった。

 1951年には越路も活躍した日本初のシャンソン喫茶である『銀巴里』(~1990年)が7丁目に開店し、美輪明宏、戸川昌子、金子由香利らを輩出した。
 常連客には三島由紀夫、寺山修司、吉行淳之介らがいたという。

 ちなみに開店時における越路の年齢は27歳、三島は26歳。
 どんな時代も文化というものは、若者たちによって作り出されるのだ。

 銀巴里に続き、1957年にはジャズ喫茶『銀座ACB(アシベ)』(~1972年)が開店した。
 客席数が300もあるその店は国内最大級で、中央にはステージがあったという。
 だが、ここはジャズではなく、翌年にデビューした平尾昌晃、そしてミッキー・カーチス、山下敬二郎らによって火がついたロカビリーブームの震源地となった。その後、グループサウンズブームにも加担していく。

 振り返ると、日本は1945年8月15日、アメリカ合衆国をはじめとする連合国に敗戦した。
 そして7年後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により、国際法上、“戦争状態”が終結した。

 つまり、敗戦からたった数年ほどで、人びとは“焼け跡だった銀座”から、シャンソン、ロカビリー、グループサウンズといった“あたらしい音楽文化”を次々に、東京全体に、そして全国に発信していったのだ。

 それだけではない。
 敗戦後の銀座の復活はめざましかった。
 この街は戦前からファッションの街であり、洋食の名店が立ち並ぶグルメの街であり、なにはなくとも「映画館の街」であった。

 映画会社・東宝の本社があったためか、戦前から日比谷、有楽町を含めてこの一帯には映画館がたくさんあったのである。
 敗戦翌年の1946年には早くもテアトル銀座、スバル座といった、あたらしい映画館が開館した。
 続いて、1953年には前述の並木座、1955年にはテアトル東京、1957年には千代田劇場とみゆき座などが続々と開館し、1960年代あたまには戦前からの既存映画館と合わせて、“日本を代表する映画館街”となった。

 かくいうぼくも、小学生の頃から“映画は銀座に観に行く”ことが多かった。

 小学校1年生の時(1972年)、都営三田線(当時は6号線)が日比谷まで延伸し、自宅のある新板橋から銀座に出やすくなったからである。

 地下鉄に乗って最初に映画に行ったのは、【有楽座】(~1984)で観たチャップリンの『モダン・タイムス』だった。
 その思い出は映画のあとに行った、マクドナルド日本1号店とともにある。
 実はチャップリンよりも、はじめて食べた“マックのチーズバーガーとシェイク(ストリベリー味)”の方が鮮烈だったのだ。
それはなんだかアメリカの味がした。

 それからというもの月に一度くらいは三田線に乗って、銀座に出かけた。

 中学1年生の時(1978年)、【テアトル東京】(~1981年)で観た『スターウォーズ/新たなる希望』も忘れられない。
テアトル東京は、超巨大スクリーンがせり出し、客席最前列とつながっているという不思議な映画館だった。

 はじめて観た「スターウォーズ」は、ストーリーよりも美術が印象的なSF映画だった。
 設定は未来なのに、登場する“未来の乗り物”のエンジンやダクトといった機械類が錆びていた。脇役のC‐3POとR2‐D2も薄汚れていたが、魅力的なキャラクターだった。

 当時のぼくは銀座で映画を観ると、帰りに【ソニービル】に立ち寄ることが常だった。地下にあるソニープラザで、アメリカからの輸入品を見るのである。
 そこには雑誌『POPEYE』で紹介していたモノがたくさん陳列されていた。
 ショートサイズの英文のコカコーラ缶、デザインが秀逸なプランターズのピーナッツ缶…。

 “東京の文化発信地”は1960年代後半あたりから、銀座から徐々に新宿に移動していった。

 テレビの生番組の収録スタジオは【銀座テレサ】(ぎんざNOW!)から、【新宿アルタ】(笑ってる場合ですよ!→笑っていいとも!)へ。
 東京都庁舎も有楽町から新宿西口へ移転するのである。

 とはいえ、ぼくが歩いた“1970年代の銀座”も、まだまだ若者の街であったし、自由な雰囲気がたちこめていたと思う(1980年代以降の銀座は“大人の街”へと変貌していった)。

 評論家・坪内祐三はデビュー作の『ストリートワイズ』(1997)で、このように書いている。

 あれは私が中学1年から2年になろうとする1972年2月のことだ。当時映画が大好きだった私は、ある日曜日、世田谷の自宅から電車を乗り継いで、一人、日比谷に向かった。アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンそして三船敏郎主演の西部劇『レッド・サン』を見にいくために。上映館は、今はもうないテアトル東京。(中略)
 テアトル東京を探して道に迷ったおかげで、中学生の私は、日比谷・有楽町界隈という巨大な遊び場を知った。中学2年から3年にかけて私は毎週のようにその界隈に通った。映画やピンボールゲームだけでなく、三信ビルの年代物のエレベーターに心ときめかせ、東宝ツインタワービルにあった紀伊国屋書店の日比谷支店は、ゆったりとしていて、私の大好きな本屋だった。そうそう、日生劇場に越路吹雪主演のミュージカル『アプローズ』を見にいったりもした。私なりに多感だった時期に、私が必要以上にグレることがなかったのは、今考えると、その界隈があったからかもしれない。つまり私は、道に迷ってその界隈をさ迷い歩いていた時に、路上の賢人(ストリートワイズ)に出会い救われたのである。

(『ストリートワイズ』より)

 この文章を読んで、当時30代前半だったぼくは一発で“坪内祐三ファン”になってしまった。

 それは、やっと自分たち世代の代弁者が登場したという喜びではなかった。
 自分にかなり近い体験をしている少し上の先輩がいるという驚きと、その体験をしっかりと言語化しているという嫉妬が、混じりあった“羨望の念”だったと思う。

 坪内祐三は1958年に東京・渋谷区本町に生まれた。1961年に一家で世田谷区赤堤に転居。地元の小中学校を卒業し、早稲田高校、早稲田大学第一文学部を経て、同大学院英文科に進学。修士課程を修了した。1987年、雑誌「東京人」の編集者となったが1990年に退社。その後、フリーの編集者となり、1997年、『ストリートワイズ』で評論家としてデビューする。

 つまり、彼は自分と同じ、「東京の子」だったのだ。

 あらためて。
 1月にネットで知った彼の死はショックだった。
 あまりの衝撃に、いつもならやるはずの死亡記事の切り抜きをし忘れた。
 追悼特集が組まれた雑誌も買わなかった。

 ゴールデンウィークの直前。外出自粛のさなか。ぼくはAmazon に再入会し、『ユリイカ 5月臨時増刊号 総特集 坪内祐三 1958-2020』を購入した。

 それは久しぶりに“坪内祐三”と向き合う時間だった。

 特集のなかで、深くうなずいたのは、評論家・浅羽通明の論考だった。

 浅羽は“坪内祐三の仕事に終始貫かれた視角”を、「書かれた書物よりも書いた人物、あるいはメディア」について書くことである、と指摘した上で、こう書いている。

 こうしたスタンスを坪内の言葉で表明したものとして読めるのが、川本三郎『クレジットタイトルは最後まで』のレビューだ。
川本三郎の映画エッセイの特徴を坪内は、こう表現する。
「映画そのものだけでなく、上映された映画館や、その映画館で購入したパンフレットについて熱心に言及されていること」と。
 これが大事なのはすなわち、「映画は単に見るものではなく、空間性を伴う一つの体験のはずである」からなのだ。
 こういうところの楽しみを喜ぶのは、まさしく、思想そのものだけでなく、思想を唱えた人物、載せて伝えたメディア、そこにからんだ人間関係などとともに読もうとする自叙伝好き読書家の嗜好そのものである。
 そして、対置していう「今どきの映画研究家」が、「ビデオやフィルムフェスティバルなどで本数だけは見ている」のを腐すのは、そいつらにとっては、映画というものが、体験する人生の一部ではなく、「数」えられる情報やデータとなっているからだ。要するに「おたく」的にしか観ないからなのである。

(前掲書 浅羽通明「SF嫌いの矜持と寂寥」より)

 確かに坪内祐三はそんなひとだった。

 浅羽は続ける。
 坪内が“文化とは空間性を伴う一つの体験である”と喝破できるのは、彼が生まれてから亡くなるまで、東京の都心部で生活してきたからではないか。親が転勤族で、地元というべき居場所を獲得できなかった者や、古本屋街の神保町も名画座も大学デビューするしかなかった上京者にとって、それは物理的に困難なことである、と指摘する。そして、同世代の某評論家の仕事と比較するのだ。

 そう、この“生活臭漂う細部へのこだわり”が坪内の魅力なのだが、それは別の観点から見ると“文化的な排他性”となる。
 特に、下の世代への知の伝達という点において困難な問題となるのだ。

 ぼくは読んでいた雑誌をおき、「銀座・並木座のポスター」を眺める。

 中学生の頃、ぼくはこのポスターをダサいと思っていた。
 動きのない定型フォーマットに上映作品と色のみを変えていくという、この古めかしい意匠を軽蔑していたのだ。
 田中一光、浅羽克己、井上嗣也らが作ったポスターが最先端だと思っていたのである。

 でも、それから30数年経ったある日、突如としてモダンに見えてきた。

 いま、起きている新型コロナ禍は、日本経済に大きな打撃を与えようとしている。

 このあたらしい感染症は感染力が強く、潜伏期間も長い。感染しても、無症状者も多い。もちろん目に見えない。
 だから、厄介なのだ。

 その厄介さは“人と人とのリアルな接触”を寸断する。
 実際、都内のすべての映画館は緊急事態宣言後、ずっと営業自粛したままだ。
 大好きな名画座。池袋・新文芸坐、ラピュタ阿佐ヶ谷、神保町シアター、渋谷シネマヴェーラ…。

 いま、「坪内が愛した文化」が蝕まれようとしている。
 同じ空間にみなが集い、喜怒哀楽するような一つの体験を。
 映画館をはじめとしたライヴ・エンターテイメントのすべてを。

 いまはもうない「銀座・並木座のポスター」を所有することは、確かに“過去への憧憬”かもしれない。
 浅羽通明が暗に指摘するように、“東京人ならではのカンジの悪いコレクション”かもしれない。

 けれど、これを捨てられない自分がいる。
 このポスターで“下の世代へ伝えられる何か”があるのではないかと思う。

 早く新型コロナ禍は収束しないものだろうか。
 みんなで酒を酌み交わしながら、大声で東村山音頭を歌いたい。

 ※2020年5月21日現在

文・写真 小梶嗣