第8回 伊丹十三が愛した蕎麦屋の徳利(昭和時代)

文・写真 小梶嗣

第8回 伊丹十三が愛した蕎麦屋の徳利(昭和時代)


 新型コロナウィルスで外出自粛をしている人も多いだろう。ぼくの駄文でくつろいでほしい。

 さて、今回ご紹介する“僕的買い物”は「丹波徳利の白黒二本組」である。

 写真を見ていただければわかるように、釉だれがなんとも美しい。でも作家性はあまり感じられない。どちらというと民芸的な徳利である。

 ぼくはこれを【伊丹十三記念館ガイドブック】で見て、知った。
 「馴染みの蕎麦屋で気に入って、特別に分けてもらった。」と書いてあった。
 ヤフオクで、“瓜二つのもの”を見つけだしたのは、その数年後のことであった。
 もの好きだね!と言われれば、そうかもしれない。まちがいなく自分はその情報がなかったら、この徳利を買うことはなかっただろうから。
 けれど、敬愛するひとと同じものを持ちたいという願いは、人生をちょっと豊かにする系の“買い物のいい訳”としては王道だと思う。

 で、唐突だが、市川崑監督の『股旅』(1973年)の話をしたい。
 ぼくの大好きな市川作品のひとつだ。

 これは“市川崑の映画史”的にみると、ATG(日本アート・シアター・ギルド)と組み、自ら製作費を出して完成させた唯一の映画であり、「アメリカン・ニューシネマ」的な時代劇である。
 『さすらいのカウボーイ』が下敷きだと言われれば、確かにそうだし、『明日に向かって撃て!』や『イージーライダー』をどこか彷彿とさせるロードムービーだ。

 とはいえ、ぼくの興味は別のところにある。
 谷川俊太郎と組んだ脚本による“江戸後期の無宿渡世人の生態”がやけに生々しく、面白いのだ。
 もともと時代劇映画には「股旅もの」というジャンルがあった。それを一般的に知らしめたのが、市川が監督・監修したテレビドラマ『木枯し紋次郎』(1972年・フジテレビ)だった。
 だが、これも一種のヒーローもので、歴史的な実態とは少しかけ離れたものだった。
 『股旅』は、市川が時代考証を踏まえた上で、“無宿渡世人の実際”をドキュメンタリー的に撮った作品だった。それはオールロケ撮影というところが原因かもしれないが。

 冒頭のナレーション、つづく常田富士夫と小倉一郎とのやりとりで、ぼくたちは完全にノックアウトされてしまう。
そこには“まったく知らない時代の日本の若者たちが映像化されている”のだ。

 1960年1月。伊丹十三(本名・池内義弘)は大映に入社した。
 芸名が「伊丹一三」となったのもそのときだ(マイナスをプラスに変えると「十三」に変えたのは1967年)。
 市川崑と伊丹十三はその年に出会った。市川45歳、十三26歳。

 ちなみに市川は十三の父、伊丹万作の映画『國士無双』(1932年)に強い衝撃をうけ、映画監督を目指した。そして、のちに万作の助監督を務めた。

 同年11月、十三は市川崑監督の『おとうと』に出演している。

 その後、映画『黒い十人の女』(1961年)、テレビドラマ『源氏物語』(1965年)、映画『吾輩は猫である』(1975年)、映画『細雪』(1983年)と、市川と伊丹十三は「監督と俳優」として、十三が亡くなるまで親交が続いていく。

 伊丹十三の第一回監督作品『お葬式』が公開されたのは、市川との出会いから24年後の1984年のことだった。51歳のデビューだった。
 5月28日に千代田区平河町の海運ビルで行われた製作発表の記者会見で、彼は「師匠は市川崑さんです」と話した。
 伊丹はその前年に市川の『細雪』に出演しているし、彼の性格からこの場面でお世辞を言うとは思えない。
 実際、伊丹は映画のシナリオが完成するたびに市川のもとに届けたという。

 彼の最初の著書『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)には、すでに映画製作に関する文章がある。

 わたくしはエピックは嫌いである。エピックとは限らない、ハリウッド式の映画の作り方に非常に疑問を持つのです。
 まず編集者が企業側に立って監督と対立しているのが気に入らない。
 次に、脚本が充分推敲されないうちに撮影にはいり、撮影中に脚本がどんどん変る。これがまた気に入らない。


 彼は1963年公開のニコラス・レイ監督の『北京の55日』に出演した。このエッセイはその出演体験にもとづく。上記はハリウッドで感じた想いなのだろう。

 ぼくは映画『お葬式』を公開後すぐに、テアトル池袋で観た。
 前年に森田芳光監督の『家族ゲーム』を観て、父親役の伊丹の演技に唸っていたので、監督デビューはうれしかった。

 ところで。伊丹十三の『「お葬式」日記』(1985年)は凄い本だ。
 ふつう、映画監督は映画をつくることで手いっぱいになってしまう。でも、伊丹はほぼ同時に本の執筆および編集もしていたのだ。
 本書は、【シナリオ「お葬式」】、【「お葬式」日記】、【監督ロングインタビュー】の3つのパートからなる。で、【監督ロングインタビュー】はまちがいなく本物のインタビューではない。伊丹十三の書き下ろし、つまり「架空インタビュー」なのだ。

 問 今までいろんな仕事をしてこられましたよね、絵を描いたり、文章を書いたり、俳優をやったり、テレビを作ったり―
 答 ええ。もちろんその前に、本を読んだり、映画を観たり、人と話したり、女房子供とごく真面目に、あるいは出鱈目に生きたり、ということがあって、それは全部僕の表現です。そういう僕の表現の多様体を、全部丸ごとすくいとってくれる有機的な生命体といいますかね、小宇宙といいますかね、そういうものとしてこの映画はあるわけです、僕にとってはね
 問 この映画はどこで輪切りにしても全部伊丹十三であるト―
 答 そう。ある意味で、この映画は僕の全人生の煮こごりのようなものではあるね


 実際、映画『お葬式』には“伊丹がこれまで観てきた映画的な記号”がメインストーリーに埋め込まれていただけでなく、“彼がつくったCMの仕事”などが「幕の内弁当」のように詰め込まれていた。

 また、『「お葬式」日記』には、ふつうなら公開しない「製作予算見積表」、「公開第1週から第3週までの各館の客入り数表」、「キャスティングの裏話」、さらには「資金の内訳」までさらけ出されていた。

 伊丹十三は第1回作品以降、製作費全額を自己資金でまかなうという方式で、計10本の映画を撮った。
 それは『ヨーロッパ退屈日記』の“ハリウッド式映画製作批判”からのゆるぎない信念だった。

 映画監督・伊丹十三を考えるとき、もうひとつ重要な要素は「テレビとCMの仕事」だろう。
 年譜によると、1961年に出演した市川監督の『黒い十人の女』は、テレビ局のプロデューサー松吉をめぐる十人の女たちの物語だった。
 そして、1965年にはじめてテレビドラマに出演している。市川崑演出の『源氏物語』(毎日放送制作)である。
 森遊机による市川崑のオーラル・バイオグラフィー、『市川崑の映画たち』で、市川は「光源氏とは、単なるプレイボーイじゃなくて、自分の人生を積極的に発見しようとする、現代的な青年だったんじゃないかと解釈して」、伊丹を起用したと発言している。

 セットは、本格的な平安朝のものを組むのは無理だと分かっていたので、書き割りを使った。しかも、極端な白黒のコントラストにして、フロアに所作台を敷きつめて、それらが映る画面効果を狙ってみたんです。
 とにかく、局のスタッフが演出を勉強するいい機会だから、視聴率はあまり考えなくていい、という大変ありがたい製作条件だったので、思いきっていろんな実験ができました。のちにビデオからフィルムに変換して輸出され、海外で賞をとったはずですよ。


 つまり、『源氏物語』は、テレビの黎明期ならではの“かなり実験的な作品”だったようだ。この市川の実験に伊丹が影響を受けないはずはない。
 伊丹十三はテレビの可能性を、いきなり“市川崑というフィルター”を通して知ってしまったのだ。

 その後、伊丹十三は1971年4月放映のNTV『遠くへ行きたい』「親子丼珍道中」をきっかけに、テレビマンユニオンとタッグを組み、“独自視点によるドキュメンタリードラマ”をつくっていった。
 さらに、“西友、味の素マヨネーズ、ツムラ日本の名湯などのユニークなCM”もつくっていくのである。

 この「CM作家の伊丹十三」にも市川崑の影がある。
 そもそも映画監督や映画俳優がCMを作るということは、それ以前にはあまりなかったことなのだ。

 僕が最初にCMを撮ったのは、ちょうど『東京オリンピック』のゴタゴタが終わった頃だと思います。ある広告関係のプロデューサーに誘われて、三時間の大作のあとに三〇秒のフィルムを作るのも洒落ているなあと思ってね(笑)。スポンサーはライオン歯磨で、『ホワイト・ライオン』のCMでした。


 女優・大原麗子の「すこし愛して、ながく愛して。」というコピーが話題となり10年間続いた【サントリーレッド】をはじめ、市川崑はそれから30銘柄以上のテレビCMを手掛けることになった。
 森遊机は『市川崑の映画たち』で、「映画、テレビ、CMの三つは、市川さんのクリエイションにとって、かなり面白い相関関係にあると思います」と指摘している。
 ぼくは、森のこの指摘は、そのまま「伊丹十三のクリエイション」にもあてはまると思う。

 ぼくが考える“伊丹十三の中に潜む市川崑”はそれだけではない。

 伊丹が1960年に自主製作した『ゴムデッポウ』は、市川監督の『いもうと』に出演後すぐに作られたし、『私は二歳』(1962年)の影響下で、伊丹は『問いつめられたパパとママの本』(1969年)をつくったと思う。
 さきほどの『「お葬式」日記』の「架空インタビュー」という手法も、市川と和田夏十の著書『成城町271番地』(1961年)の「私は風当りが強い」の“ジャン・コクトーとの架空対談”を思い起こさせる。
 伊丹が得意とする“画面の外と内を自由に行き来する手法”も、市川の『鍵』(1959年)の冒頭部分の仲代達也そのままではないか。
 「市川崑と和田夏十(脚本家)」と「伊丹十三と宮本信子(主演女優)」の関係性も、“映画製作上のパートナーシップ”としてあまりにも似すぎている、と思うのはぼくだけだろうか。

 最後に、伊丹十三が1968年に出した二冊目の著書『女たちよ!』の「まえがき」でおわることにしよう。

 寿司屋で勘定を払う時、板の向こうにいる職人に金を渡すものではない。彼らは直接食べ物を扱っているのだから。このことを私は山口瞳さんからならった。
 包丁を持つ時には、柄のぎりぎり一杯前を握り、なおかつ人さし指を包丁の峰の上にのせるのが正しい。私はこのことを辻留さんにならった。
 そうして、正しく握った包丁で俎に向かう時、躰を斜めにかまえて包丁を俎と直角に使う。これが俎に対して、また材料に対しての礼である。このことを私は築地の田村さんにならった。


 続けて伊丹は、白洲春正氏、石川淳先生の小説、子母沢寛氏の「味覚極楽」、小林勇氏、福田蘭童さん、長尾源一氏、女友達からそれぞれならったことを列記していく。

 だが、執筆が1968年だということもあるのだろうか。市川崑がでてこないのだ。
 書くとしたら、映画監督として、テレビというものについて、CM作家として、“市川崑からならったこと”を書いたのだろうか。

 そして、この「まえがき」は次のような一文でおわる。

 と、いうようなわけで、私は役に立つことをいろいろと知っている。そうしてその役に立つことを普及もしている。がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身は―ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない。


 彼の才能は、己を「空っぽの容れ物にすぎない」と知っていたことだった。

 ぼくは自宅のリビングで、この徳利にいれた三千盛が空っぽになるたびに、そのことを思い出す。
 自分が徳利になったような気分になる。

文・写真 小梶嗣