文・写真 小梶嗣
第6回 イイホシユミコの花器(bon voyageシリーズ)(2007)
旅と旅行は違う、と思う。
「旅行」という言葉にはなんとなく凡庸な匂いがたちこめており、「旅」という言葉には人間の本能を感じるのだ。
ぼくにとって、「旅」とは作家“沢木耕太郎”のことである。
ぼくの”沢木耕太郎”は、友人のF君が貸してくれた『人の砂漠』(1977年)からはじまった。1981年のことだった。
これは8編のノンフィクションからなる短編集で、高校生の自分にとって“まったく知らない世界”のことが書かれていた。
ぼくは日本に生まれ十数年も生きてきた。なのに、実はなにも知らないということを知った。
それから、『敗れざる者たち』、『一瞬の夏』、『テロルの決算』と、つぎつぎに読み継いでいった。
1986年5月に発売された『深夜特急第一便』と『第二便』は、ファンにとっては違和感のある新刊だった。
それまでのルポルタージュとかニュージャーナリズムといった類ではなく、沢木自身の過去の旅の記録だったから。
彼は日本を出発し、香港、マカオ、東南アジアを経て、インド・デリーからイギリス・ロンドンまでの6万5000キロを、乗り合いバスを使って旅したのだ。
ぼくは、この二冊に強い影響を受け、バックパックを背負って世界を旅するようになった。
1980年代に多くいた若者のひとりだった。
1986年夏に、F君と行った自称“深夜特急の旅”は忘れられない。
ぼくたちは“ブルース・リーの映画を観て、映画館から出てきた観客”と同じだった。
本を読んで、すぐに旅立ったのだから。
“深夜特急の主人公”になりきったぼくたちは、バックパックに必要最低限の荷物を詰め込み、格安航空券を使って、まずは香港を目指した。
最終目的地のイメージはあった。
その数年前にCMでシルクロードを題材とした美しい映像が流れていた。
あの世界に憧れていたのだ。
「こころに決めたのは学生時代だった。シルクロード。甘いロマンは吹き飛んだ。過酷。ただそれだけの沙漠。太陽。道。気温は毎日45度を超えた。それでも人間はいきている。それでも人間は文化を運んだ。人間ってすごいなあ。シルクロード。今宵、夢街道。サントリーオールド」。
ユーラシア大陸のまん中。東洋と西洋の分岐点。彼らの顔はアジアのひとでもヨーロッパのひとでもなかった。エメラルド色の瞳、褐色の肌、民族衣装。
CMのロケ地だった“中国最奥地のカシュガル、トルファン”は無理としても、その入り口であるウルムチまでは上海から長距離列車が出ている。
全長4056キロ、所要時間約40時間。モスクワ行きの国際列車をのぞくと中国最長距離を走る鉄道だった。
ウルムチ(烏魯木斉)に行ってみたいと思った。
中国と日本が国交を回復したのは1972年。
「1986年の中国」は経済発展前で、まだまだ豊かな状況ではなかった。街では人民帽と人民服の大勢の市民たちが自転車を漕いでいた。そんな中華人民共和国だった。
結論から先に言ってしまおう。
ぼくたちはウルムチには到達できなかったのだ。
長距離列車があまりにも過酷で、途中で逃げ出したのだ。
いや、それは二等座席車だったからなのかもしれないが。
始発駅である上海駅から、ぼくたちは軟臥車(一等寝台車)でも、硬臥車(二等寝台車)でもない、「硬座車」に乗り込んだ。
外国人旅行者は基本、硬座車の切符は買えない。だから、ぼくたちは切符売場ちかくで、船員のおじさんに声をかけ、筆談で購入をお願したのだ。
ぼくたちは「中国のふつうの人びと」に混じって、旅をしたかったのだと思う。
まちがいなく“沢木耕太郎”の影響だ。
いまでもあの長距離列車の硬座車を思い出す。もう30年以上前のことなのに。
イメージしてもらいたい。
硬座車は、日本のJRで言うと、東海道線や横須賀線のような“ボックス席車両”である。
直角にちかい背もたれの、あの硬いシートである。
当時、沿線全線に電気は通じていなかったので、気動車はディーゼル車だった。そして区間によっては蒸気機関車になったと記憶する。
その客室に乗客が200%近く乗っている。満杯状態なのだ。
テレビ番組『世界の車窓から』のインド編などでときどき見る、あの恐ろしい風景だ。
ぼくたちはいきなり“あの風景の中”に投入されたのだ。
網棚と座席横には信じられないほどの荷物、荷物、荷物。もちろん4人掛けのボックスシートには最低6人は腰かけている。通路にもひと、ひと、ひと。
老婆、日焼けした労働者風の男たち、乳児を抱いたお母さんと子どもたち。人種もさまざまだった。
夜になると、人びとは網棚の上や通路の隙間に折り重なるようにして寝た。
さらに驚くべきことは、駅に停車すると出入口からだけでなく、車窓からも乗り込んでくることだった。
かく言うぼくたちは上海駅で猛ダッシュし、なんとかふたり分の席を確保した。
対面にはウイグル族の家族。彼らも終点のウルムチまで行くのだろうか。
言葉は交わせないものの、筆談したり、トランプをしたりして、コミュニケーションをたのしんだ。食事どきになると上海から持ちこんでいた、焼き干したような丸鳥をみんなで分け合いながら、むしゃむしゃと食べるのが鮮烈だった。
列車には冷房はなかった。でも車窓は全開で、風が通り抜けるので涼しかった。
トイレ室はもちろんついていたが、ドアをあけると“床に穴が開いているだけの個室”だった。つまり、穴から線路が見えるのだ。
ぼくたちは上海での席取りの際、進行方向右側の席から埋まっていく意味がわからなかった。
だが、数時間後には理解した。進行方向左側にトイレ室がついていたのだ。
30数時間後、ぼくたちは残念ながらリタイアした。
降り立ったのは、深夜の蘭州駅だった。
走行距離2000キロ超。日本で例えると、東京から台湾までずっと列車に乗っていたことになる。行こうとしていたウルムチまでの距離のちょうど半分だった。
早朝、ひとり、“朝陽に照らされた、どこまでも続く地平線”と“さまざまな民族の寝顔”を眺めながら、「これは旅行ではなく、旅だな」と思った。
そして、読んでいた青木冨貴子の『ライカでグッドバイ』の頁を閉じた。
あの時間は、あきらかに観光はなく、現地の人びとと同じ空気を吸いながら一緒に生きた時間だった。
さて、第6回目の“僕的買い物”は、【イイホシユミコの花器】である。
この花器は2007年、転勤で二年暮らした福岡で見つけた。地元ではかなり有名な雑貨店の売り場で、だった。
その店にはカミさんのお伴で行ったのだが、発見した途端メロメロになってしまったのだ。
「旅持ちの花器」というコンセプトは考えてもみなかったし、くるみ材で作った専用ケースも素晴らしかった。
また“bon voyageシリーズ”という名前も洒落ている。
ぼくは仕事の出張で使うことを想像した。
無味乾燥なビジネスホテルの一室で、出張先の道ばたで摘んだ“名もない草花”をいけるのだ。
それはこころに余裕があるからこそできる行為だし、美しい光景だった。
迷うことなく買うことにした。
話をふたたびもとに戻す。
沢木耕太郎の『深夜特急』は全3巻からなる。
実は『第三便』は、『第一便』と『第二便』の発売からなんと6年後の1992年に発売されたのだった。
そして、告白すると、ぼくは『第三便』をまだ読んでいない。
トルコからロンドンまでの沢木の旅が、はたしてどういうものだったかを知らないのだ。
なぜ読まなかったのか。それには明快にこたえられる。
その6年という歳月は、ぼくを学生から社会人に変えていたからだ。
もうひとつ。
実はウルムチにも行っていない。
そして、たぶん「もう行けない」のだと思う。
読書にも旅にも、きっとタイミングというものがあるのだ。
あの『深夜特急』はまちがいなく1986年にぼくが読むべき本だった。
そして、あの上海発ウルムチ行きの長距離列車には20歳のぼくにしか乗れなかったのではないか。
旅とは“若者にのみ許された特権”であり、“年齢制限のある買い物”だったのかもしれない。
でも、と50代半ばのぼくは思う。
齢重ねても、旅に出られるのではないかと。
いつか【イイホシユミコの花器】を持って旅に出たいと思う。
ぼくはまだこれを一度も使ったことはないのだ。
文・写真 小梶嗣