第5回 陶器製の栓抜き(昭和時代)

文・写真 小梶嗣

第5回 陶器製の栓抜き(昭和時代)


 自分の知識の源泉が「学校の授業」ではなく、大半が「マンガ」であることに最近になって気がついた。

 ぼくは昨年度から、ある美術大学で【現代文化論】を教えている。
 必修科目で15コマ。約4か月かけて講義する。
 でも、コンサバティブに「現代文化の定義」からはじめて、「映画、演劇、文学など各ジャンルを1コマ90分で、戦後すぐから現在まで時系列でたどっていくような講義」にはしたくはなかった。

 まずは「自分を形作った現代文化」を受講生ひとりひとりに考えてもらって、そこから世代的な共通点を見つけ出してもらい、戦後文化全体を俯瞰していくような講義にしたいと思った。
 美大出身者は将来“現代文化の担い手となる人材”である。
 だから「現代文化」を自分事として把握する必要がある、と考えたのである。

 そのためには、まずは“ぼく自身のこと”を考えなければならなかった。

 「マンガの存在」の大きさに気づいたのは、その過程で、だった。

 ところで。
 ぼくは、人間にとって一番たいせつな能力は「想像力」ではないかと思っている。
 想像力によって、ひとは“他者の存在”を発見する。それは、きっと人種や性別など様々な偏見や差別をなくすことにつながっていくはずだからだ。

 そして、その想像力は「経験」をベースに培われる。
 子どものころに転んで擦りむき、痛かった経験が“他人の転倒の痛み”を想像することになるのだ。

 だが、ひとは「経験していないこと」も、想像しなくてはならない。
 読書や映画鑑賞や他者の体験を聴くことは「疑似的な経験」であり、己の想像力を育てることになるだろう。

 そんな中、ぼくが人生で一番衝撃を受けた読書は、小学校の高学年のころに読んだ、中沢啓治の『はだしのゲン』(単行本/1976年)だ。
 学校の図書館で読んだそのマンガは、ぼくのこころに“戦争と原爆の恐ろしさ”を刻み込んだ。

 ぼくは今回、『はだしのゲン』(中公文庫コミック版・全7巻)を購入し、約40年ぶりに再読した。そして、このマンガについて調べてみた。
 そこには、子どものころに読み取れなかった“驚くべき事実”がかかれていた。

 作者の中沢啓治は1939年(昭和14年)に広島市で生まれた(2012年没)。
 生家は代々漆塗りを生業としており、父親も日本画家で蒔絵師だった。啓治は5人兄弟の4番目の三男として生まれた。
 1945年(昭和20年)8月6日午前8時17分、アメリカ軍による原子爆弾投下により、啓治は被爆する。人類史上初の核攻撃であった。彼は広島市内の国民学校(小学校)の1年生で、6歳。学校近くで友だちの母親に呼び止められ、学校のコンクリート塀により熱線を浴びずに、奇跡的に助かったのだ。
 けれど、この原爆で父親、姉、弟を失ってしまう。原爆当日生まれた妹も数カ月後に命をおとしてしまう。

 父が絵描きだったせいか、私は絵を描くことだけが好きだった。戦後、手塚治虫著『新宝島』を読み、ものすごい刺激を受けた。夢中で手塚漫画を模写し、漫画狂いになった。原子野となった広島市の焼け跡で毎日、毎日、飢えて苦しくとも漫画を描いている時は幸せだった。そして将来、必ず漫画家になると誓った。1961年に上京し、一年後に『少年画報』誌に連載を開始し、漫画家生活に入った。
 1966年、原爆病院に入院し、七年の闘病生活をつづけた母が死んだ。母の火葬に立ち合い私は驚いた。母の骨がなかったのだ。小さな骨の破片が点々としているだけだった。原爆の放射線セシウムは、母の骨髄に入りこみ、スカスカにして、奪っていったのだ。私は、ものすごい怒りが込みあげてきた。無謀な戦争を遂行させ原爆投下を招き寄せた日本の戦争指導者共と原爆を投下したアメリカは許せんと思った。

(中沢啓治『「はだしのゲン誕生」まで』より)

 つまり、『はだしのゲン』のストーリーは、“作者である中沢啓治の体験そのもの”なのだ。

 本作は、よく「反戦反核を訴えたマンガ」と言われる。
 ぼくも、さきほど、このマンガを読んで“戦争と原爆の恐ろしさを(こころに)刻み込んだ”、と書いた。
 実際、作品紹介にはそう書かれることが多いし、それは嘘ではない。
 だが、その紹介の仕方は“このマンガの核心”をつかんでいないと思う。

 この作品は“マンガという表現をかりた被爆者・中沢啓治のドキュメンタリー”だった。

 そこには、「イデオロギー以前のなまなましい現実」が描かれている。
 彼が描いた「原爆直後の広島」は、目を覆いたくなるほどの“生き地獄”だ。
 敗戦し、占領され、政府もなにもない中、広島の人びとは「原爆野」という極限状態の中で生きる。

 このマンガでは、なんと「殺人」も善悪を問わないまま描かれる。いや、悪党に対しての殺人は肯定されているかのようだ。
 また、主人公の中岡ゲンは、原爆(ピカ)で死んだ人びとの白骨化した頭蓋骨を拾い、占領軍の兵士たちに売るのだ。
 それは町で出会った、ある戦争孤児の言葉がきっかけだった。

 わしと弟はピカがおちるまえは大きな家にすんで、たのしかったんじゃ。そ、それがピカのために、みんなころされて、わしら野良犬のようになってしもうた。
 わしゃ見世物をみるようにこの広島へくるアメリカ兵をみるとムカムカするんじゃ。ピカで死んだ者のうらみをこめてガイコツを売りつけてやるんじゃ。

 アメリカから金をしぼりとってやることが、わしにできるうらみをはらすことじゃ。

(中沢啓治『はだしのゲン』④(中公文庫コミック版)より)

 そして、彼は頭蓋骨を売って貯めたお金で、原爆のために盲目になってしまった弟の眼を治してやるのだ、と言った。

 ここに「反戦反核」といった理想論やイデオロギーを感じるだろうか。
 ぼくは、このマンガの根本に「リアリズム」を強く感じたのだった。

 中沢が「はだしのゲン」で描き出したのは、“人間のエゴイズムの醜態”だった。

 確かに、不幸にも原爆の熱線を浴び皮膚がドロドロになってしまった被爆者たちの姿は目をそらしたくなる。だが、読み進めていくと、最も醜いものは「人間のエゴイズム」だとわかってくる。

 「はだしのゲン」の中では、戦時下も戦後も、日本人は同じ日本人に対してさえ差別し、迫害していた。

 戦時下においては、戦争に反対する者は「非国民」と呼ばれ、特高警察に検挙され暴行を受けた。また、近所の者から投石されたり、様々な“いじめ”にあうのだった。

 戦後においても変わらなかった。
 広島においては、「非国民」に代わって、「原爆の被害者たち」が迫害された。
 それは、先ほどのような「原爆により家族を失い孤児となった貧しい子どもたち」であり、「原爆の熱線をあびて顔面や身体がケロイド状となってしまった人びと」だった。

 つまり、人びとは被害者である彼らを助けるどころか、さらに叩きのめしたのだった。

 それは極限状況だったから、仕方がなかったのだろうか。
 自分たちのことで精いっぱいだったから、そんな態度になってしまったのだろうか。

 けれど、主人公のゲンは、そんな苦境のなかでも、彼らに手をさしのべる。
 自分自身も原爆により頭髪が抜け落ち、住む場所もなく、ギリギリの生活をしているのに。
 そして生きのびるために、時に盗みをし、時に乞食のふりをして浪曲をうたって木戸銭をあつめるのだ。

 広島と長崎に原爆が落とされ、十数万人の人びとが亡くなって、1945年(昭和20年)8月15日に戦争は終わった。
 そして、70年あまりの時間が経過した。
 当時6歳だった中沢啓治も、生きていれば80歳になる。
 兵隊として戦地に行った人びとは、ほとんどこの世からいなくなってしまった。

 そんな2019年のいま。
 この国で、“自国の過去についてあまり悪く言うな”というような空気がたちこめつつある。未来志向になるべきであり、反省することは「反日」的だというのだ。
 それは、さきの戦争で日本軍が、中国や韓国の人びとに対して行った行為についての存否やその補償に関する問題が起点となっているようだ。

 けれど、ぼくは、それは外国の人びとに対してだけではなかったことを知っている。

 戦争や原爆といった極限状況は、どうやら人間を“醜いエゴイズムの塊”にしてしまうようだ。そこに国籍といったものは関係ない。

 歴史をひもとくと、どんな戦争でも被害者は、弱い立場にある「ふつうの人びと」である。
 生きのびた戦争指導者たちは、戦後もなにごともなかったかのように生きる。

 あらためて。
 ひとは「経験していないこと」も想像できなければならないと思う。

 戦争を知らないひとだけになった、この国のぼくたちは、「戦争の記憶」を補完しなければならない。

 最後に。
 今回の“僕的買い物”は写真の「陶器製の栓抜き」である。
 戦時下で作られた栓抜きだ。
 エンボスで刻印されているように、当時、貴重でほとんど飲むことができなかった瓶ビールやジュースの王冠をこれで抜いたのだろう。

 わしの家には鉄と名のつくナベやカマまでなくなった…。軍艦や戦車、鉄砲をつくるまで供出でもっていかれた。
 子どもたちはまい日、腹をすかして…イモ一個、米のひと粒をとりあって、すさまじいケンカをする…。子どもたちがうえているのは軍隊に食糧をもっていかれるためだ…。
 わしらはそれでもがまんしている…。
 これでも戦争に協力していないと言われるのか!非国民といわれるのか!

(中沢啓治『はだしのゲン』①(中公文庫コミック版)より)

 ぼくは想像する。
 この栓抜きを使ったのは、「ふつうの人びと」ではない。
 戦争指導者たちが使ったか、これから戦地に赴く若い兵士が別れの杯を酌み交わすために使ったのではなかろうか。

 ぼくは、この栓抜きを一生使うことはないだろう。

 これを買った、原宿の骨董市のおじさんは、「瓶ビールを二、三本抜くと、本体自体が壊れちまうよ」と笑って、新聞紙に包んでくれた。

文・写真 小梶嗣