第4回 アンディ・スペードの“腕時計”(TIMEX Cub Scout Watch 1978年)

文・写真 小梶嗣

第4回 アンディ・スペードの“腕時計”(TIMEX Cub Scout Watch 1978年)


 明治12年(1879年)、東京。
 A君は江戸末期、弘化年2月28日(1848年4月1日)に八丁堀で生まれた。生家は幕臣で同心(下級武士)の家だった。
 その年、彼は30歳を迎えた。そのころの寿命といったら、40代の半ばといったところ。つまり彼は熟年になろうとしていた。

 以下はA君の日記(現代語訳して再編集)である。

 思い返すと、明治に入る前から世の中は徐々に変わってきた感じだった。
 ぼくが寺子屋に入る前ごろ、父親が瓦版を見るなり叫んだことを覚えている。それは“江戸湾にあらわれた黒船についての記事”を読んでのことだった。黒船4隻うち2隻は煙を吐きながら動く巨大な蒸気船で、日本人ははじめて見るものだった。親父は瓦版を握りしめ、「とんでもないことになったぞ」とつぶやいた。
 ぼくは15歳のときに同心になった。といっても、岡っ引きを何人も従えて江戸の町を守るといった勇ましい仕事ではなく、南町奉行所での内勤仕事だった。その前年に親父が体調をくずしたため、そのまま引き継いだのだ。
 そんなぼくにとって慶應4年(1868年)は忘れられない年だった。
 正月すぎに突然、“上方で幕府軍が薩摩と長州藩兵と戦となり敗れた”という情報がはいってきた。まさに寝耳に水の出来事だった。
 つまり、ぼくたちは“自分たちが知らぬところで負けた”ということのようだった。
 それからすぐに勤務先の南町奉行所は“市政南裁判所”と改称された。5月のことだ。
 翌月には徳川家から今後の身の振り方について三つの選択肢が提示された。ひとつ目は「新政府に出仕する」。ふたつ目は「徳川家と共に静岡に移住する」。みっつ目は「御暇願(おいとまねがい)を出して新たな職業につく」。
 何がなんだかわからなかったが、どれもが乱暴な提案だった。
 けれど、年老いた親父の判断は冷静で早かった。わが家はそのまま江戸に残り、武士をやめることになった。もちろん新政府に仕えるなんてもっての外だ。
 親父は読書が趣味で、世の中を広い視野で見ていた。またベストセラーとなった福澤諭吉の『西洋事情』の熱心な読者でもあった。そのため、日ごろから“幕臣の堕落”について嘆いていた。平和な江戸は幕臣を貴族化、役人化してしまっていたのだと思う。
 その年の7月、江戸は東京府と改められた。

 あれから11年。
 ぼくは今日も“散切り頭に着物姿”でお汁粉屋の厨房に立つ。八丁堀の屋敷を出て、日本橋の魚河岸前ではじめた商売が軌道にのったのだ。これはひとえに“市場がある町人町のど真ん中”に店を構えたからだ。
 というのも、幕末から明治に入ったころの東京の荒廃ぶりはすさまじかった。それは当然で、東京府の土地の7割近くは大名や旗本、御家人が住む武家地だったからだ。それが一挙に“もぬけの殻”となったのだ。小石川、牛込、四谷、赤坂あたりは、数年で大きな屋敷の至るところに雑草が生い茂り、家屋は朽ち果てた。昼間でもうす気味悪くて歩けたものではなかった。
 100万人はいたであろう江戸の人口は半減し、“参勤交代というシステムにより三百年まわり続けた江戸の経済”は停止したのだ。

(参考文献: 安藤優一郎『江戸っ子の意地』(集英社新書))

 さて、1879年のA君の日記はこの辺で終わりにしよう。

 今回紹介する“僕的買い物”は「アンディ・スペードの“腕時計”」である。
 もちろんA君の時代から140年も経った“2019年のいまのモノ”の話である。

 ところで、あなたは「アンディ・スペード」をご存じだろうか。
 アンディ・スペードは1963年にアメリカ合衆国ミシガン州で生まれた。学生時代に広告エージェンシーを設立。1993年にはニューヨークで、ファッション・ブランド【KATE SPADE】を妻のケイトと立ち上げ、成功させた。男性向けの【JACK SPADE】も事業のひとつだった。2007年、ブランドを売却。アンディは自身のクリエイティブ・エージェンシー【PARTNERS&SPADE】を設立した。2013年には友人らとルームウェア・ブランド【SLEEPY JONES】を立ち上げた。
 つまり、彼は実業家であり、クリエイティブ・ディレクターである。
 そして、ぼくはそんなアンディ・スペードの大ファンなのだ。

 2つしか年齢が違わないということもあるのだろうか、同じようなトラッドでも“1939年生まれのラルフ・ローレン”ではなく、自分にはアンディ・スペードのセンスがフィットする。

 では、彼が作り出すプロダクトの魅力とはなんだろう。
 それは“一見普通に見えるモノに仕込まれたユーモアセンス”だと思う。

 例えば、【JACK SPADE】のバッグには“卓球ラケット専用バッグ”がある。卓球メーカーのバッグはいろいろとあるが、ファッション・ブランドの卓球バッグなんて見たことがない。
 それはラグジュアリー・ブランドが作る“乗馬やゴルフといった貴族スポーツ用品”を嘲笑するかのようだ。
 また、2006-2007年のコレクションでは、“ビニールシートでできた中国製のショッピング・バッグ”があった。「百円ショップ」でよく見かける、あの赤いチェック模様の安手のバッグだ。
 だが、アンディが作ったものにはブランド・タグがついている。それも通常の「JACK SPADE WARREN STREET NEW YORK」が、中華街のある「CANAL STREET」にすげ替えられ、縫い付けられているのだ。
 まさにポップアート!ある意味、ブラックユーモア。いわゆるレディメイドな感覚だと思う。

 ある日のこと。
 ぼくは雑誌『Free&Easy』(現在休刊)で“アンディ・スペード”を発見した。2013年10月号だったと思う。
 それはよくあるファッション・リーダーのワードローブ紹介の記事だった。
 “ラコステの古いポロシャツ、クラークスのワラビーブーツ、20年前に手に入れたというブルックスブラザーズのOXフォードシャツ、REIの赤いマウンテンパーカー”。
 彼好みの1960年代のトラディショナルなものが並ぶ。

 そんな中に“NATOベルトがついた針のない腕時計”があった。
 キャプションにはこう書かれていた。

 「私はiPhoneを時計代わりに使っているので、普段時計は持たないんだ。すぐなくしてしまうしね。これはJACK SPADE製で、すでに壊れているがバンドの色が気にいっているため、ブレスレットのように使おうと捨てずにいる」。

 ショックを受けた。
 現代において腕時計の役割がなくなりつつあることは薄々気づいていたが、ここまではっきりと“腕時計はもうブレスレットだ!”と喝破した文章を読んだのは、はじめてだったから。

 iPhoneは2007年6月29日に発売された。
 スティーブ・ジョブズは以降2011年に亡くなるまで、iPhoneを猛烈な勢いでヴァージョンアップしていった。

 電話、メール、カメラ、電卓、地図、テレビ、ラジオ、ウォークマン、新聞、雑誌、メモなどを次々とのみ込んでいった。
 そして、腕時計は機能と分離し“ブレスレット”になったのだ。

 ぼくは真夏の平日、大手町や丸の内といったオフィス街を歩くことがある。
 目にするのは、通りを闊歩するカジュアルな服装のビジネスマンたちだ。

 “紺や黒のダークスーツ、レジメンタルのネクタイ、トラディショナルな黒や茶の革靴、そして革製の手提げカバン、ステンレス製の腕時計”。
 30年前、ぼくが社会人になったころのサラリーマンの姿はもうどこにもない。

 いま思うと、あれは江戸時代の武士でいう“小袖、袴に大小の刀”だったのかもしれない。

 2019年のいま、彼らは“ジャケットにチノパン、シンプルなスニーカー、黒いバックパックを背負い、片手にはiPhone”といういでたちをしている。
 かく言うぼくも、数年前から同様の恰好をしている。

 ごくたまに“TIMEXの腕時計”を腕に巻いて出社する。
 アンディ・スペードの真似をして、ヤフオクであえて“ジャンク扱いの1978年製腕時計”を買ったのだ。もちろんNATOベルトも別途購入し、カスタマイズした。

 習性とは恐ろしいもので、腕時計をしているとつい時間をみてしまう。
 でも、針は動いていないのだ。

 すると、なぜか“行き先がわからない未来行きのタイムマシンに乗せられている”気分になる。

 ぼくたちはもしかしたらいま、140年前のA君と同じような“時代の変化の真っ只中”にいるのかもしれない。
 それが正しいのなら、1853年の黒船に相当するものは、きっと「デジタル」なのだ。

文・写真 小梶嗣