第3回 有次の薬缶(昭和時代末期)

文・写真 小梶嗣

第3回 有次の薬缶(昭和時代末期)


 昨年まで東京有楽町に『慶楽』という中華料理店があった。
 はじめて行ったのは、いまから28年前のこと。会社の先輩に連れられて行ったのだった。というのも、本社がかつて有楽町にあったので、近場のここは“社食のような存在”だったらしいのだ。
 ネットで検索すると、名物は「上湯炒飯(シャンタンチャーハン)」とある。深めのどんぶりに炒飯を入れ、上湯を張った、スープ炒飯だ。
 けれど、ぼくの好物は春巻、海老のチリソース、蒸し鶏だった。春巻なぞは皮を裏返しに使って揚げた、大ぶりでインパクトのあるもの。具にしっかりと味がついているので、これに辛子だけで、ビールをグビリとやるのがお決まりだった。
 そんないろいろな思い出がつまった慶楽も、昨年の12月28日に有楽町のまちから忽然と消えてしまった。
 貼り紙には「昭和25年創業」とあり、閉店の理由として、「ビルの老朽化、昨今の飲食業界の変化など、弊店のような昔気質の料理店の運営を続けていくことは、今後さらに困難になると判断した」と書かれていた。

 ひとは“なくなることがわかったとき”に、その存在の重要性に気づく。

 慶楽もご多分にもれず、最終日まで超満員のまま営業し、店を閉じた。

 さて、今回の“僕的買い物”は【有次の薬缶】である。
 男の買い物で薬缶というのは珍しいかもしれない。いやいや、女でも珍しい。一生でそんなに何度も買いかえるものではない日用品だ。 その薬缶と出合ったのも12月28日だった。いまから23年も前の、だが。

 仕事納めの日。
 急いで机をかたづけたぼくは、そそくさと会社を脱出し、東京駅でカミさんと二歳の息子と合流した。飛び乗ったのは東海道新幹線。目的地は京都である。
 古都で年越しをしようと考えたのだ。
 岐阜羽島を越えたあたりからだろうか。車窓の外の暗闇に雪がチラつきはじめた。

 ホテルに到着したぼくたちはベビーシッターに二歳児を預け、後ろ髪を引かれながらタクシーに乗り込む。
 「祇園の切通しにある安参(やっさん)に」、運転手さんにお願いする。

 京都の夜の雪景色は幻想的だった。
 大通りでタクシーを降り、小道につもった雪を踏みしめながら、『安参』の引き戸を開ける。 ガラガラガラ。
 あたたかい空気がぼくたちを包み込む。
 白木のカウンター。舞妓さんの名が赤文字で刷られた団扇がたくさん飾られている。
 多くの客が酒を酌み交わしているのが見えた。
 手前の牛煮込みの鍋からだろうか、日本人なら誰でも好みそうな醤油ベースの香りが鼻孔を通じて食欲を直撃する。ゴクリ。
 眼鏡は外気との温度差で曇ってしまい、見えなくなった。
 「もうちょいしたら席があくから座ってまってて」と、店のひと。

 そして、室温に眼鏡が慣れ、おぼろげながら見えてきたのは、待合に置かれた“古い石油ストーヴ”と湯気が立ちのぼる“見たこともない薬缶”だった。
 ぼくの目玉はその薬缶の美しさにくぎ付けとなった。

 それはアルミを打ち出して作られた薬缶だった。

 たぶん職人さんが何百回もアルミ板を叩き出して成形したものだろう。
 ふたの上には桔梗文様の装飾が施され、取手とつまみには籐が巻かれている。
 行平鍋や寸胴鍋で同種のものを見たことがある。
 でも、薬缶ははじめてだった。
 大量生産品とはあきらかに違う“職人の手わざ”が感じられるプロダクト。
 心の底から欲しいと思った。

 しばらくすると、カウンターにぼくたちは案内された。
 ぼくは酒の注文よりも先に薬缶について質問した。
 「あれ錦小路の有次さんの薬缶やで。いまも作っているかわからへんけど」
 有次といえば、1560年(永禄3年)創業の刃物店。京都御所の鍛冶だったそうで、現在では刃物だけでなくプロ用の調理道具全般を扱う老舗である。

 翌朝、イノダコーヒ本店で朝食をとり、ぼくたちは錦小路にある『有次』にむかった。
 けれど、薬缶は見つからなかった。
 店のひとに聞くと、もう薬缶が作れる職人がいなくなってしまった、とのことだった。なんだか伝統文化が失われたような気分になった。

 早速、「有次の薬缶」捜索がはじまった。

 ようやく入手したのは、それから数年後のこと。
 ある日、ぼくはヤフオクで発見し、落札したのだった。

 ところで。プライベートなことで恐縮だが、ぼくの80歳をとうにこえた母には記憶がない。
 彼女はぼくのことを自分の弟だと思っているようだ。弟はもうこの世にはいないのだが。

 休日の午前10時、静かな老人ホームの応接セットで母と対話する。

 ぼくは映画「ブレードランナー」の一シーンを思い出す。
 ヒロインのレイチェルはレプリカント(人造人間)だ。しかし彼女は自分がレプリカントであることは聞かされていない。不安な彼女は“昔の自分の写真”を大切に持っている。実はそれは偽の写真なのに。
 レイチェルにとって、その写真は自分が人間であることを証明する拠り所なのだ。

 これはSF映画に限ったはなしではない。
 記憶にもあたらしい、東日本大震災の大津波。
 不幸にも家や家族を失った被災者の方々が探し求めたのも写真だったという。
 大海原に流されてしまった、自分だけの記憶。

 おいしいものを食べること。
 大切なひとと旅をすること。

 それは素晴らしい思い出を作っていることでもある。
 ひとは楽しかった日々の記憶を糧に未来に向かって生きていくのだ。

 台所にある【有次の薬缶】を見るたびに、ぼくは“あの冬の京都の旅と安参の美味しい肉料理”を思い出す。

文・写真 小梶嗣