第2回 植草甚一主義(1978)

文・写真 小梶嗣

第2回 植草甚一主義(1978)


 買い物には二種類あると思う。ひとつは生きのびるために必要な食べ物や下着やふとんといった買い物。もうひとつは人生をちょっと豊かにするための買い物である。

 ぼくが植草甚一を発見したのは、池袋の西武百貨店内にあった西武ブックセンターの書棚だった。
 確か高校1年生で、1981年のことだった。ぼくはその頃、『ビックリハウス』という若者向け雑誌にはまっていた。それに、ビックリハウスで活躍していた糸井重里と湯村輝彦による『情熱のペンギンごはん』と出合い、ヘタウマ漫画に夢中だった。イラストレーションの世界に興味がいくのは時間の問題であった。その日も、ぼくは勉強もしないで赤羽線に飛び乗った。池袋に“買えない本”を立ち読みしに行くのである。地元の新板橋書店は数年前に『MADE IN USAカタログ』(1975)を発見できたものの、それ以降はさっぱりだった。ぼくはいつものように美術コーナーに向かった。目当ては有名イラストレーターの大判作品集。湯村輝彦、河村要助、矢吹申彦、ペーター佐藤、横尾忠則、和田誠、原田治。ぼくはそれらをドキドキしながら隅から隅まで眺めた。

 『植草甚一主義』は『湯村輝彦ヒットパレード』や『矢吹申彦風景図鑑』と同じく、美術出版社の一冊として並べられていた。
 “植草甚一”とは一体何者なのだろう。ぼくは薄暗い照明のもと、ページをめくっていった。そこにはイラストレーションはなく、独特の手描き文字が添えられたコラージュがたくさんのっていた。また、植草甚一らしき“髭を生やしたおじいさん”の写真がいたるところに載っていた。
 植草甚一はイラストレーターではなかった。どうやら湯村や矢吹のように30代の働き盛りといった年齢でもないようだった。
 でも、なんだか自由な風が自分の中に吹き抜けたような気がした。コラージュを作って、旅をして、写真を撮って、日記を書いて。ぼくもこんな風に生きてみたいと思った。

 とはいえ、その本でいちばん驚いたのは、植草が“ニューヨークやサンフランシスコで買ってきたお土産”を解説付きで紹介していたことだった。例えば、“入れ歯型の貯金箱”には、「これは一番最初にニューヨークに行ったときに、八丁目の均一品を売っている店で買いました。一年ぐらいしたら、東京の王様のアイデアでも並んでいるのを見たことがあります。お匙のところへコインをのせて下へ押すと、歯があいて口の中に入る貯金箱です。」と書かれていた。
 ぼくなら、もう日本で買えるようになってしまったものは掲載しないけどな、と思った。

 2019年、令和元年のいま、いわゆる目利きと称される著名クリエイターの“お気に入り公開的なアイテム本”はたくさん存在する。ソニア・パーク、藤原ヒロシ、祐真朋樹、岡尾美代子など、枚挙にいとまがない。でも、いまから40年前の1970年代後半にはそうではなかった。たしかに、『MADE IN USAカタログ』のような外国製品を紹介するムック本や、カタログ雑誌と呼ばれた『POPEYE』(1976-)はあった。けれども、個人をフィーチャーし、そのひとが海外で何を買ったかという視点でモノを紹介する本は皆無だった。ましてや、ぼくが見たのは、逸品とか厳選品とかブランドといったシロモノではなく、誰がどうみてもガラクタなのだ。

 評論家の坪内祐三は1979年夏に銀座の資生堂ビルで開かれた「植草甚一展」について、同じような驚きを書いている。坪内はぼくよりも6歳上で、“同じような”という表現はあまりにも失礼なのだが。

 その時僕は、大学二年生だったのですが、ある感慨を持って見ていました。というのは、植草さんは展覧会というかたちで一つの像が結ばれるような人ではないと当時思っていたわけです。植草さんがニューヨークで写した写真や買ってきた小物とか、あるいは毎日の日記。植草さんは非常に日記好きの人だったのですけれども、それもただの日記ではなくて、その日に食べたレストランのレシートとか、観た映画のチケットとか、会った人の名刺とか、あるいは旅行に行ったときにはホテルのナプキンだとか電車の切符とか、そういうものを全部張りつけていた。しかもカラフルな絵を描いたりして、オブジェとしても面白い日記なのです。そういう日記とか、植草さん自身のコラージュとかそういうものが展示してあったのです。(中略) それを展示会というかたちで総合的にまとめるということに対して、僕は学生でしたから、違和感はなくて非常に面白く見たわけですが、少し不思議な感じもしました。つまり、どんどんと消費されていくはずのものが、そういうかたちで展示されていたからです。

(坪内祐三『後ろ向きで前へ進む』より)

 『植草甚一主義』に衝撃を受けたぼくは、それからというもの、晶文社の『ワンダー植草・甚一ランド』や『知らない本や本屋を捜したり読んだり』や、植草甚一スクラップブック全40巻をコツコツとあつめていった。それらは神保町の古本屋の書棚の中でひときわ輝いて見えた。それは文学でも社会科学でも漫画でもない、あたらしいジャンルの本だった。
 読んでいくと、植草の本には映画評論、ジャズ評論、欧米文学評論が書かれていた。いやいや、彼は“評論家”とはいちばん遠い存在だった。
 J・J氏(彼はこう呼ばれていた)はじぶんの興味にしたがい、ただ観て、聴いて、読んで、ぼくたちにそのおもしろさを紹介してくれるおじいさんだった。

 いま考えると、はじめての植草甚一が『植草甚一主義』だったことは、結果的によかったのかもしれない。この本は1978年に刊行された、坪内祐三の文章を読むかぎり1979年の「植草甚一展」の手本となったような総合的な本だったからだ。

 このように、世代的にぼくは植草甚一に直接影響を受けた世代ではない。第一ぼくが『植草甚一主義』を発見したとき、彼はすでにこの世にはいなかったのだ。
 植草を最も支持したのは、ぼくよりはるか上の“団塊の世代の若者たち(1947-1949年生まれ)”だった。時は1960年代後半から1970年代、それは“政治の季節の終わり頃”だった。当時、自分たちが思い描いた理想とまったく逆の現実のあいだで押しつぶされそうになった学生は、『週刊少年マガジン』に連載されていた「あしたのジョー」(1968-1973)や植草甚一のような生き方に助けを求めていたのかもしれない。
 そのようすは植草甚一スクラップブック各巻の解説や別巻『植草甚一研究』を読むとわかる。山田宏一、小林信彦、淀川長治、双葉十三郎、都筑道夫、虫明亜呂無、片岡義男、小野耕世、草森伸一、平岡正明、池波正太郎、田村隆一、筒井康隆、浅井慎平、真鍋博、青山南。錚々たる顔ぶれが彼を語っているのだ。

 最近、尊敬する60代前半の編集者から、「植草甚一っていまの若者になにも響かないんじゃないの」と言われた。
 そのときはあえて返事をしなかったけれど、ぼくは“いまだからこそ植草甚一でしょ”と思っている。

 紹介がてらに、植草が1976年に書いた短いコラム(全文)を読んでみよう。

 昨年六月の話だがハーバード大学のアレクサンダー・ゲルシェンクロン教授が停年でやめたとき、こんなことを言った。教室でやる講義だけれど、あれは活字ができる以前の中世的なやりかただよ。教室では生徒とディスカッションするのが一番いい。講義は眠くさせるだけだ。それで先生は眠気ざましに俳優みたいな真似をするようになった。しょうがないねえ。
 きのう久保田二郎さんが来て、ぼくの本の解説を書くまえに、ちょっと訊いておきたいことがある。そうしてこう言った。『きみはチャーリー・パーカーをどんな風に聴いてたんだい?』ぼくは『聴かなくちゃいけないと思ったんだ。けれどピーンとこなかった』と答えた。『そうだろうねえ。じつはパーカーは聴かなくてもいいのさ。あれはプレイヤーの練習用のものでデッサンなんだよ』ぼくはさっきの教授の話を思い出した。

(『宝島』1976年5月号より)

 どうです。いい感じでしょう。なんだか落語の小噺に似たテンポ感。

 アレクサンダー・ゲルシェンクロン先生や久保田二郎を知らなくても、そして最後のオチが本当にオチているかわからなくても、“チャーリー・パーカー”を試しに聴いてみたくなるのではないだろうか。
 植草甚一の文章はすべてこんな感じなのだ。

 ぼくは、このコラムを当時古本で読んだ。通学途中だったと思う。でも、あたりまえだがチャーリー・パーカーをすぐに聴くことはできなかった。
 まずは新宿の黎紅堂(れいこうどう)という貸しレコード屋に行き、レコードをさがす。そしてレンタル料を払って板橋の家までLPを持って帰らなければならなかった。
 それがどうだろう。いまはスマートフォンですぐにチャーリー・パーカーを確認できるのだ。

 つまり植草甚一はiPhoneと相性がいい。
 植草甚一を読むと、必ずジャズを聴き、映画を観たくなるから。

 いまの若いひとには植草甚一に触れてほしいな、と思う。知らない映画やジャズや本のことがたくさん出てくるから。ただ流し読みすればいいのだ。昔々、こんなに自由で、趣味に生きたおじいさんが存在したことを知ってほしい。
 当時のぼくを思いかえすと、植草甚一は“救い”だった。これからの人生をどう生きればいいかわからなかったから。そして、団塊の世代の若者たちもきっと救われたのだと思う。
 2018年に年間で一番売れた本は、漫画版と合わせて、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』だった。はじめて出版されたのは1937年という大昔の本だ。
 2019年にぼくはこころの中で叫ぶ。若者よ、いまこそ植草甚一だよ、と。

 ちなみに余計なお世話だが、このコラムには引用部分を含め33の人物名がでてくる。解説はしない。スマホがあるからね。

文・写真 小梶嗣