第1回 ポラロイド ビッグ・ショット(1971-1973)

文・写真 小梶嗣

第1回 ポラロイド ビッグ・ショット(1971-1973)


 買い物には二種類あると思う。ひとつは生きのびるために必要な食べ物や下着やふとんといった買い物。もうひとつは人生をちょっと豊かにするための買い物である。

 先日、都内のホテルのラウンジで音楽家の小西康陽さんとお茶をした。話題はなぜか“単行本の函”の話となった。すると、小西さんの口から突然スノウチトオルの名前が出た。その名は、ぼくにとって旅先の知らない町でもう何十年もあっていなかった親友と遭遇したような驚きがあった。
 スノウチトオルといえば小説家で美術評論家で、画商である洲之内徹のことだ。代表作「気まぐれ美術館」は『芸術新潮』で13年間も連載していた摩訶不思議な美術コラム。それらをまとめた4冊の単行本の造本は函を含めてすべてがうつくしい。
 とはいえ、ぼくは“洲之内徹のハコ”というと、どうしても「気まぐれ美術館」のこのエピソードを思い出してしまう。

その晩、家に帰ると、私は久し振りにその絵をとり出して見た。とり出すというと、倉からでも出してくるみたいだが、実は毎晩、この絵と鼻を突き合わせて寝ている。ただ、部屋が狭いので、いつもは絵の箱の並んだ上に、布団が畳んで置いてある。絵を出そうと思うと布団を除けなければならないし、布団を敷いてからでは、絵を出しても置き場がないので、すぐ近所にいながら、なかなかお目に掛る機会がないのであるが、その晩は敢えて、布団を置いたまま、その下から絵の入った箱を引き抜いた。部屋の中の、絵を掛けられる唯一の壁面には、既に林倭衛の少女像が掛かっている。箱から出した絵は、テレビに立てかけて、眺めた。

(洲之内徹『絵の中の散歩』より)

 この場面は、あるオークションで中村彝(つね)の8号の絵が1,800万円で売れたことを聞いた洲之内が、家に帰って“自分の中村彝”を眺めるシーンである。それは二十歳のころの自画像で、12、3年前に20万円で手に入れたものだった。
 洲之内はその後も、誰から乞われてもその絵を売ることはなかった。
 良い絵とはと問われて、彼はこう答えたという。「買えなければ、盗んでも自分のものにしたくなるような絵」と。

 さて、今回紹介する“僕的買い物”は米国ポラロイド社の「ビッグ・ショット」というインスタントカメラである。1971年から1973年のたった3年間だけ製造されたこのポラロイドはポートレート専用機で、絞りもシャッター速度も合焦距離も固定されたもの。電池も必要としない。撮影者はパックフィルムを装填したあと、ポラロイドを被写体から1.2メートルのところで構え、レンズ横にある赤いレバーを切ればよい。すると、それがトリガーとなってストロボが発光し撮影されるという仕組みである。60秒後には“近すぎるフラッシュのせいで独特の色合いと陰影を残した写真”が浮かび上がるのだ。潔いまでにミニマムでうつくしい構造である。
 でも、ぼくはこれを“撮影するため”に買った訳ではない。
 ビッグ・ショットはポップアートの旗手と呼ばれるアンディ・ウォーホルが使っていたカメラなのだ。1987年に亡くなるまでウォーホルはポラロイドを愛用した。写真をシルクスクリーン作品の原版にしたのだ。時には自分の周りにいるセレブリティたちを撮影した。彼がこよなく愛したポラロイドがSX-70という機種とこのビッグ・ショットだった。
 ポラロイド社はビッグ・ショットを製造中止した後も彼をサポートし続けたという。

 ぼくはアンディ・ウォーホルが好きである。
 けれど、ぼくはアンディ・ウォーホルを持っていない。今後も買うことはないだろう。別に高額であるということが理由ではない。お金はあまりないけれど、洲之内徹がアパートの一室で中村彝と暮らしたような覚悟さえあれば、なんとか買えるはずである。
 きっとぼくは彼の作品を“良い”と思っていないのだ。
 確かに「マリリン・モンロ-」も「エリザベス・テイラー」も「キャンベル・スープ缶」も現代美術史にとって重要な作品かもしれない。でも、少なくとも洲之内が言うように“盗んでも自分のものにしたい”と思わないのだ。

 ポップアートは現代社会の大量生産・大量消費をテーマとした芸術運動である。だからこそ彼は作品を一点物にはせず、ポラロイドで撮った写真をもとにシルクスクリーンで印刷したのだ。熱量や湿度を排した、コンセプトを優先した作品を作り続けたのだと思う。
 ぼくにとってアンディ・ウォーホルの魅力は、作品コンセプトとはちょっと離れたところで垣間見える20世紀文化への批判精神であり、ひとりの芸術家が醸し出す孤独感である。
 パット・ハケットによる日記やウォーホルが創刊したInterview誌や彼が蒐集したモノの方に興味が沸くのは、そこに“アンディ・ウォーホルがいること”が実感できるからなのかもしれない。

 ぼくは今日も賃貸マンションの一室で古いポラロイドと鼻を突き合わせる。
 外見上は単なるカメラ好きの50代男に映るかもしれない。でも、ぼくの目玉は確実にビッグ・ショットの向こう側にいる“アンディ・ウォーホル”を見ているのだ。

 その姿は近すぎるフラッシュのせいで独特の色合いと陰影を残した“一点物のポラロイド写真”に映しだされている。

文・写真 小梶嗣