文・長谷部千彩 写真・林響太朗
「ねえ、起きて起きて!」
妹の声で目覚める。明け方までNetflixで海外ドラマを観ていたから、まだ眠い。
「お雑煮出来てるよ!ママが呼んで来てって!」
そこまで高らかに知らせてくれなくても。小学生って呆れるほど朝から元気。手足が短いから末端までエネルギーが行き渡るのだ、きっと。
母の作るお雑煮には白味噌と丸餅が入る。コーヒーとオレンジだけの朝食に慣れた胃には少し重いけど、八歳の妹にはこれがお正月の楽しみらしい。くわえたお餅をわざわざぐーっと伸ばしてみせる。
「お姉ちゃん」
「何?」
「これ食べ終わったら、何して遊ぶ?」
今年は祖父母宅に挨拶も行けず、お年玉はもらえない。お友達との行き来も控えるようにと学校から注意を促されているという。それでもっぱら私が彼女の遊び相手となっているのだ。
「あつ森は?」
「もう飽きたー」
「リングフィットアドべンチャーは?」
「もう飽きたー」
「うーん、どうしようね?」
「なわ跳び!この頃やってなかったじゃん、なわ跳びしようよ!」
二ヶ月ぶりに上るマンションの屋上。今日も東京は晴れている。
早速、妹はなわ跳びを始める。パシッ、パシッ、パシッ。コンクリートを叩くなわの音。前跳び。後ろ跳び。片足跳び。二重跳び。遅れて私もなわを手に跳び始める。パシッ、パシッ、パシッ。コンクリートを叩くなわの音が追いかける。でも、私ができるのは前跳びだけ。あっと言う間に息が上がる。激しい鼓動。八十回目前で足がもつれ、なわが絡む。
「膝を真っすぐにしないからダメなんだよ、ほら、曲がってる!」
容赦ないダメだしに私は口を尖らせる。
「いいの、ほっといて」
これでも随分進歩したのだ。春に始めたときは十回しか跳べなかった。それが少しずつ記録が伸びて、いまは八十回。それが限界。体が重い。ちびっ子とは条件が違う。
外出自粛要請が出た四月。妹が通う小学校は休校になった。私が通う大学もオンライン授業に切り替わり、父も母もテレワークに。花々が咲く一番美しい季節なのに、台風の夜みたいに家族で身を寄せて過ごす。そんなとき、運動不足解消にと妹と私は屋上でなわ跳びを始めたのだった。
私たちの住むマンションは坂の上にある。辺りに高い建物が少ないため、なだらかな斜面に立ち並ぶビルやマンションの屋上を見下ろすように眺めることができる。家に籠もり、退屈しているのは、私だけではなかったのだろう。晴れた日には、あちこちのマンションのベランダや屋上に住人たちが姿を現した。普段は閉められているカーテンも開かれて、窓の奥でひとが動めいているのが見えた。顔を背け合うようにして暮らす都会で、それは初めて目にする不思議な光景だった。
八十回跳んでは呼吸を整え、また八十回跳ぶ。体は温まっても、春とは違い、冷たい空気にさらされて鼻の先は赤くなる。遠くから轟音が近づいてきた。飛行機が青空を横切っていく。そうだ、羽田空港への新ルート利用が始まって、こうして頭上を飛行機が飛ぶようになったのも春だった。陽差しに目を細めたそのとき、屋上を囲うフェンスにもたれていた妹が声をあげた。
「あのひといるよ!」
私はとっさにそちらに顔を向けた。
四軒隣りの低層マンションの屋上で、ひとり、スウェット姿でなわ跳びをしている男のひとがいる。妹が言う。
「あのひと見るの久しぶりだね」
それは外出自粛要請が出ていたときのこと。お昼と夕方、彼は、毎日、屋上に上がってくるのだった。大抵はストレッチをしていた。煙草を吸いながらフェンスに肘をつき、通りを見下ろしていることもあった。何のトレーニングなのか、その場で足踏みやジャンプをしている日もあった。そして、時々、私たちと同じ、なわ跳びをしていた。私はこのマンションに長く住んでいるけれど、それまで彼を見かけたことはない。いくつぐらいのひとなんだろう。私よりも少し年上に見える。決まった時間に現れるところから想像するに、社会人ではないだろうか。在宅勤務になって、一日中、机に向かって、休憩に外の空気を吸いに出てくるーー。
たぶん私の予想は当たっていたと思う。外出自粛要請が解除されると、屋上にいる姿を見かけることはなくなった。一度だけ、秋の朝、コンビニエンスストアからの帰り道、ランニングしている彼とすれ違ったけれども。
「あのひとのなわ跳び、早いよね」
妹は首をすくめてじっと彼を見つめている。
確かに私の鈍重ななわ跳びとは違う。今年は三キロ痩せるのが目標。もう少し頑張ろうかな。なわを手に身を返そうとしたそのとき、「手、振ってみようよ」と妹が言った。
「え?」
「振ってみようよ」
「ええっ?」
「こっちに気づくかも知れないよ!」
言い終わらぬうちに、妹は大きく右手を振っていた。
「ちょっと、やめなさいよ」
彼女の肩をつかんだ瞬間、妹がぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「あっちも振ってる!」
目をやると、本当に向こうも手を挙げている。
「ヤッホーーー!」
妹の澄んだ声が響き渡った。
「ヤッホーーー!ヤッホーーー!」
なわを放り出し、妹が両手を挙げ、勢いよく左右に振る。
笑っているのだろうか。表情はよく見えないけれど、なわを床に置き、彼も両手をゆっくり振っている。
「ヤッホーーー!ヤッホーーー!」
「近所迷惑だから、ほんとにやめて」
「ヤッホーーー!ヤッホーーー!」
「やめないとダメ!」
かすかに声が聞こえた。
「ヤッホー!」
「私、あっちに行ってみる!」
くるりと向きを変え、妹が階段に向かって駆け出した。
「ちょっと待って、待って、変なひとだったらどうするの!」
私は慌てて妹のなわを拾い上げ、後を追った。
「待ちなさい!マスク!マスクしないと!」
妹が階段を駆け下りる。
私も階段を駆け下りる。
何をやっているのだろう。
何をやろうとしているのだろう。
でも、今日は新しい年の最初の日。
動く。動く。
先など見えないのに。
動く。動く。
ひとつも解決してはいないのに。
動く。動く。動く。
世界が動く。
(2021.1.1)