離ればなれに

文・長谷部千彩 写真・林響太朗

 彼が帰省しないことを知ったとき、私は小さく驚いて、でもすぐその後に思い直した。そんなことになるような気もしていた、と。
 彼の家には心臓に疾患を持つお母さんがいる。万が一、感染させてしまったら大事(おおごと)になる。それだけじゃない、彼の職場での立場を考えると、陽性患者が増え続ける東京に来て欲しいとは言えなかった。

 最後に会ったのは一月。品川駅のホームで「次は私がそっちに行くね」と言い、手を振って彼と別れた。新幹線は定刻通りに発車し、見送る私を残して白い車体はぐんぐん遠のいていき、線路の先で点となって消えた。寂しいとは思わなかった。またすぐに会えるのだと、よほどのことがない限り、新幹線の発車時刻みたいに、それは果たされる約束なのだと私は信じきっていた。

 春に出た外出自粛要請は夏の初めに解除された。勤め先は引き続き在宅勤務を社員に課し、私は忙しくその時期を過ごした。
 お盆休みには国内を旅行する友人も少なからずいて、時々土産話を聞かされた。羨ましく思う反面、咎めたくなる気持ちもどこかにあって、そういうときは決まってアイスティーがいつもより少しだけ苦く感じられた。

 「来月あたり会おうか」ーーその言葉を、彼も私も何度口にしたことだろう。けれど、そうしていいものか心は揺れ、「来月」が近づくとその言葉は「様子を見よう」という言葉に置き換わった。会いたいという気持ちは確かにあるのに、陽性患者数の棒グラフが伸びると「無理をしなくても」と思ってしまう。彼のお母さんのことがよぎり、私たちの諦めが回り回って感染拡大を防ぎ、世の役に立つのではないか、などと考えたりした。いま思えば、やっぱり彼も私も自身の感染を何より恐れていたと思う。

 夏が過ぎる頃には、いろいろなことにすっかり慣れていた。マスクをすること。手洗い。オンラインでの打ち合わせ。宅配便は玄関のドアの前に置いていってもらう。外食の代わりのウーバーイーツ。配信動画。運動不足解消のために始めた朝の散歩もいまでは日課。どれもが私の「当たり前」になった。そう、彼と会えない日々も。

 そして、ある日、気づいたのだった。
 蓮の葉の上に水を落としても、葉が濡れることはない。水ははじかれ、水銀のように丸まった水滴となる。「ロータス効果」という言葉を知ったとき、まるで彼と私みたいだと思った。私たちは、その場に染み入ることなく、ふたつに分離し、転がり落ちる。頭の中で、しずくがきらりと光った。

 

 午後、明日の朝食のためのパンを買いにスーパーマーケットへ行くと、例年よりひとは少ないものの、街は大晦日なりの賑わいをみせていた。角の花屋で売れ残りの花束を安く買い、部屋に戻ると私はガラスの花瓶に活けた。
 年末には彼が来る。そんなこともあるかもしれない。薄羽のような期待を寄せて、先月のうちに済ませておいた大掃除。差し込む西日にオレンジ色に染まったその部屋を改めて眺め回すと、どことなく殺風景に感じた。

 窓を開け、風を入れる。ビルの向こうに太陽はいまにも沈もうとしている。
 来年の春には。来年の夏には。来年の秋には。
 そう考えてもみるけれど、それは希望的観測では、と疑う自分がいる。
 この事態は、たぶん、もう少し続く。
 女友達から届いたカードは、結婚式は延期、入籍だけ済ませ、一緒に暮らし始めたという知らせ。それに引き換え、私は、山手線に乗る回数すら減ったのに、ましてふたりを繋いでいた新幹線などーー。
 もうこのままでいいのかもしれない。
 私たちは、静かに離れていくだろう。
 ニューノーマル。彼と私は、新しい生活を既に始めていたのだと思う。

 ロックダウン措置を取った街では、同棲するか、解除されるまで離ればなれか、恋人たちは選択を迫られたらしい。
 私に会いに来て。
 こっそり私に会いに来て。
 どこかのタイミングでそういえば良かったのだろうか。
 新幹線は止まらなかった。外出は禁止されなかった。あくまで自粛要請だ、と政治家は言い張った。会えないことはなかった。でも、会おうとはしなかった。私たちはひどく真面目に感染を恐れた。己が招いた結果だと、いまそれを責めるひとはいるだろうか。彼と私は愚かだったのか。

 テーブルの上には外したマスクがねじれて転がり、その内側にはリップがうっすらと色移りしている。先週買ったリキッドルージュ。それは、いままで使っていた赤よりも一段深い秋の新色。ひとに会うことが減り、フーディとデニムで過ごすことが多くなった私のぼんやりした表情に、このリップを塗ったときだけ、鮮やかな未来が引き寄せられる。パンプスを履き、新しい服を着て、誰かに会いに行く。そして笑う。そんな未来。

 今年がどんな年だったのか、私にはまだわからない。
 今日のことはきっと明日が、今週のことはきっと来週が、今年のことはきっと新しい年が輪郭を与えてくれるだろう。それまで私は愚かであり続ける。
 耳にかけるゴム紐をつまみ上げ、マスクをゴミ箱に捨てる。
 さようなら。心の中でつぶやいた。
 明日は元旦。東京は晴れると聞いた。

 

(2020.12.31)