「開館50周年記念特別展」奥村土牛-画業ひとすじ 100 年のあゆみ -山種美術館 2016/3/19~5/22

「開館50周年記念特別展」奥村土牛ー画業ひとすじ 100 年のあゆみー
 山種美術館 2016/3/19~5/22

絵を観るのは若い頃から好きだった。けれど、日本画を観るようになったのは、ここ10年ほどのことだ。特にきっかけがあったわけでない。気の向くまま日本画展へと足を運ぶうちに次第に魅了されていった。その表現が一番しっくりくる。

横山大観、速水御舟、川合玉堂、鏑木清方、上村松園、小林古径、福田平八郎・・・。高校の美術の時間にスライドを観せられた記憶はある。しかし、私の持っている知識はそれ以上でも以下でもない。ゆえに、最初は、名前と作風がなかなか一致しなかった。また、ぱっと観て、良さのわかる絵、好きになれる絵もあったが、一方で良さのわからぬ絵、観た直後から、頭から抜けていってしまう絵もあった。感想もせいぜい「綺麗だなあ」と口からこぼれる程度。始めはそんなものだった。何しろ、私がそれまで観てきた西洋絵画とは随分違うし、日本画のどこをどう観ればいいのかわからなかったのだ。けれども、わからないなりにぶらぶらと通い続けているうちに、日本画を観たときに得られる“良い”という感覚、感動の感覚が体の中に芽生え始めた。そして、ただ漠然と絵の前に立っていたのが、心震える絵に何枚も出会い、いつしか自分の好みがわかるようになり、いまでは好きな画家や好きな作品の名を挙げられるようにまでなったのである。

例えば。
私が最も好きな日本画家は奥村土牛である。
京都醍醐寺のしだれ桜を描いた『醍醐』、青空が控える姫路城を描いた『城』、徳島からの帰途、小舟の上からスケッチした絵をもとに描いた『鳴門』。代表作はもちろんだが、自然を描くときも、小さな動物や可憐な花を描くときも、奥村土牛の作品は、いつも大らかで色柔らかく、暖かい。包容力にあふれている。そして、どの作品からも、腰の据わった感じ、実存の強さが感じられる。また、奥村土牛作品の特徴だとも思うが、紅葉を描いても、雪山を描いても、雨空を描いても、どこか陽光を思わせる明るさが漂っていて、心が晴れやかになってくる。くだけた言葉で表現するなら、私は奥村土牛の絵を観ていると、新しい空気を鼻から喉、肺へ、胸いっぱい吸い込んだような、手足を大の字に広げて寝転んだような、白い敷布なら、四隅をぴんと伸ばして張ったような、清々しい気持ちになるのである。そして同時に、そう感じることを許されているような、何か深いものにくるまれたような安心感を得るのである。

私は美術評論のプロではないので、これらはすべて個人的な印象に過ぎない。けれども、一ファンとして思うまま、さらに綴るなら、奥村土牛の絵に魅かれる私は、美しいものが美しく描かれているから魅かれているのではなく、大きなものが大きく描かれているから魅かれているのでもなく、奥村土牛の、対象を捉える、その捉え方の美しさ、捉え方の大きさ、彼の視点と表現に対する考え方に魅かれているのではなかろうか。そして、私は、奥村土牛の作品のあれが好き、これが好き、ではなく、そのどれもが好きなのだが、それはそういった理由によるためではないか、と思っている。

《花でも鳥でも私は格別の好き嫌いはない。何でも美しいと思うし、可愛らしいと思う。
(中略)
総て生物の生きてる感じを出すことは並大抵の困難さではないが、生きているように見せよう見せようと努めて描くよりも、描く前に鳥なら鳥に花なら花にしみじみとした愛と画心を覚えて、その気持ちでもって描いて行けば技巧の上で稚拙であっても、いい味わいのものが出来るものと思っている。その心持ちが何より大切なのではないかという気がする。》 (「写生の事など」 『塔影』10巻11号 1934年11月より抜粋)

これは、今回の展覧会で販売された図録に収められていた奥村土牛自身の文章の一部だが、私が非常に感銘を受けた一文である。奥村土牛の、対象を見つめる目を的確に表した一文だと思う。

山種美術館
東京都渋谷区広尾3-12-36
03-5777-8600
開館時間 : 10時〜17時
休館日 : 月曜
www.yamatane-museum.jp

奥村土牛《醍醐》1972(昭和47)年 紙本・彩色 山種美術館
奥村土牛《醍醐》1972(昭和47)年
紙本・彩色 山種美術館
奥村土牛《城》1955(昭和30)年 紙本・彩色 山種美術館
奥村土牛《城》1955(昭和30)年
紙本・彩色 山種美術館
奥村土牛《醍醐》1972(昭和47)年 紙本・彩色 山種美術館
奥村土牛《閑日》1974(昭和49)年
紙本・彩色 東京国立近代美術館
[4/19-5/22展示]