RANDOM DIARY:COVID-19 長谷部千彩

コロナウィルスが存在する世界で暮らす一週間。
暴風雨に散る桜。ラウンジチェアがある理由。
ショーン・ベイカーとカル・ジェイダー。
白いマスクの記憶。SF小説ではない、現実。

2024年4月8日(月)

≪北北西で何か怪しい匂いがする。ヒッチコックの映画ではなく、ドイツの北北西にある村、ギュータースローの話だ。二〇二〇年六月半ば、この村の食肉加工工場で六百五十人以上の労働者がCOVID-19陽性となり、現在も数千人が隔離中。ここに登場するのはおなじみの階級分断、3Kの職場で働く外国人労働者たちである。
 同じ匂いは、世界中に広がっている。二〇二〇年の晩春、米国南部テネシー州でも怪しい匂いが漂った。何トンもの果物や野菜が収穫されずに腐った匂いだ。なぜか。同州のある農場で、一人の労働者が新型コロナに倒れたあと、総勢二百人近くの労働者が一人残らず検査陽性になったためだ。≫

 まえがきを読み始め、驚いた。
 うわ、SF小説の書き出しみたい!

 週末、部屋に掃除機をかけている時、ソファ脇に積み上げられた本の中に見つけたスラヴォイ・ジジェクの『パンデミック2 COVID-19と失われた時』。その前年に出版された『パンデミック 世界をゆるがした新型コロナウイルス』は読破したものの、続編は未読のまま。買ったことすら忘れていた。奥付を見る。2021年2月24日初版と記されている。

 いま読んだらまた別な面白さがあるかもね。夜11時、ハーブティを入れたボトルと本を手に、ラウンジチェアにどっかりと腰を下ろす。この椅子に身を沈め、オットマンに足を投げ出して本を読むのが就寝前の愉しみ。それは私の長年の習慣で――と言いたいところだけど、このラウンジチェアはコロナ下に購入したもの。
 東京に外出自粛要請が出て、すべての打合せがオンラインに移行したため、その頃の私は一日中、自宅で机に向かう暮らしをしていた。運動といえばせいぜい散歩を30分ほど。そして仕事が終わると本を読むためにまた机に向かう。同じ姿勢でいる時間があまりに長いと心配した母に、少しカンパしてあげるからくつろぐための椅子を買ったら、と勧められ、思い切って注文したのがこの一脚だ。けれどそのいきさつを普段思い出すことはない。私のベッドルームで存在感を発揮するラウンジチェアがそこにあるのは、パンデミックが起きたから――なんてことはすっかり忘れている。
 この数年間に経験したことを振り返ると、もはやそのどれもが夢の中の出来事のように感じる(日本国民はみなマスクで顔の半分を隠していた!)。でもすべて現実に起こったこと。ジジェクのテキストだってそう、単なる事実。SF小説の書き出しなどではなく。


2024年4月9日(火)

 朝から東京は暴風雨。窓から下を覗くと、公園に咲く桜の枝が激しく揺れている。打ち合わせは急遽オンラインに。

 雨が小降りになった頃、Fちゃんがオフィスにやって来る。彼女は旧友の娘なのだが、週3日、私のオフィスでアルバイトをすることになり、本日が初出勤。「今日からよろしくお願いします!」という溌溂とした声に、こちらまで清々しい気分になる。
 彼女はこの三月大学を卒業し、念願かなってある劇団の研究所に通い始めた。演劇の世界に進みたいという彼女を、お茶や食事に誘ったり、入所試験の相談に乗ったりしつつ、微力ながら応援していた私にとっても、今年は嬉しい春なのだ。
 やりたいことに挑戦してみたけれどダメだった、それなら諦めがつくけれど、挑戦しなかった / 挑戦できなかったという後悔は、心に巣食って、いつまでもそのひとを苦しめる。それが若い頃にはわからなかった。けれど、(時間的に)もう間に合わないということが増えてくる年齢になったいま、私にはよくわかる。だから、彼女にも言い続けたのだ。納得のいくところまではやってみたほうがいい、と。
 私の人生においても、心に巣食っているものがある。あのとき、自分で選べなかった、自分で選びたかった、と思う選択が。


2024年4月10日(水)

 午後、仕事部屋にNさんが遊びに来る。
 数日前に映画『PERFECT DAYS』の感想をInstagramに投稿したところ、知人数人から「その件、会って話したい!」と連絡があったのだが、Nさんもそのひとり。彼女とは去年会食をしてから、頻繁に会うようになった。つきあいは浅いのだが、いつも同世代ならではの会話で盛り上がる。今日は事務所スタッフHも参加。

 ふたりの感想を聞くのも面白かったが、私が一番ひっかかったのは、後半に登場する三浦友和が演じた役だ。7年前に別れた元妻に会うため、彼女の店にやって来るのだが(石川さゆり演じる元妻はバーのママという設定)、店の客に過ぎない主人公(役所広司)に、元妻のいないところで自分たちの関係(=彼女の極私的な情報)をペラペラ喋る軽率さに唖然。極めつけは「(彼女を)よろしく頼みます」と突然頭を下げるところ。相手(主人公)はただの客でしょう?そんなこと勝手に言っちゃっていいの?勘違いされたらどうするの?ていうか、そもそもそれはどういう意味なの?接客業に携わる女性たちが笑顔の裏で、私的領域に踏み込ませないよう、どれだけ神経を尖らせているか、理解されてはいないのだろうか?(これだけ多くの事件が起こっているのに!)
 もちろん映画は正しさを描くためだけのものではないから、いろいろなひとがいるよね、という意味において、無神経なひとを登場させても構わないと思う(社会勉強になる)。だけど、何年も前に別れた男が旦那面して現在の生活に突然介入してくるという、女にとっての地獄エピソードが「いい話」になっていることには笑えないものがある。
 とは言え、これは私の感じ方。この作品に感動したひとの気持ちも理解できないわけではない。好きなひとは好きだろうな、と思う。ただ、私なら同時期公開されていた三宅唱監督の『夜明けのすべて』のほうを推すけどね。


2024年4月11日(木)

 午後、W先生、来訪。仕事の合間に広東語のレッスンを1時間ほど。ちっとも上達しないのは、私の文法知識があやふやなため。次回から、しばらく文法のおさらいをして欲しいと先生に頼む。

 夜、車を運転して馬喰町へ。編集者Yさんとビストロで食事。久々のイタリアンに舌鼓を打つ。
 ここでも話題は『PERFECT DAYS』に。Yさん及び、Yさんのまわりの女性編集者たちの辛口の感想を聞き、笑い転げる。ほんとあちこちで物議を醸しているなあ、この映画。でも感想を語り合うためにひとを集わせる力を持った映画だとも言えるわけで、それって制作者にとって最高の賛辞ではなかろうか。
 他に話題はパレスチナ問題のこと、Yさんの転職のこと、私の二拠点生活構想のことなど。昨日会ったNさんも同世代、Yさんも同世代。最近50代の女性たちとよく会っているのは、何といってもお喋りが楽しいから。仕事や子育てが一段落して、みな自分のことを考える余裕ができたのか、会話が学生時代のそれに戻っている。
 20代のときは30代になるのを恐れ、30代のときには40代になるのを恐れ、40代のときには50代になるのを恐れている女性に、経験から言わせてもらうと、人生には20代には20代の、30代には30代の、40代には40代の、50代には50代の楽しさが用意されているから、無駄な心配などせぬことよ!――なんて私が訴えたところで、信じてはもらえないかな。
 帰りはYさんを乗せ、渋谷まで戻ってきたところで解散。運転に安定感があると褒められ、上機嫌の私。 


2024年4月12日(金)

 事務所スタッフHとカフェでサンドウィッチのランチ。話題はもっぱら私の住居のこと。近隣のマンション建て替えによって部屋の日当たりが悪くなるとわかってから、転居すべきか住み続けるかずっと悩んでいるのだが、一昨日、Nさんに「インテリアを思いっきり変えるとか。照明を変えたりすると、すごく気分が変わりますよ」と助言をもらい、俄然その気に。転居を決断する前に、まずは模様替えをしてみようという気になっている。内装を考えるのは大好きだから、好きなことをやる機会を得た、と捉えれば前向きな気持ちになれるかも(自己暗示)。

 私の使っていないノートPCをFちゃんに貸すことになったので、夜、再設定の作業。そのかたわら、配信で映画『レッド・ロケット』を観る。『タンジェリン』『Starlet(チワワは見ていた)』『フロリダ・プロジェクト』・・・・、ショーン・ベイカー監督作品はどれを観ても面白い。いつも主人公をガンガン歩かせる。本作『レッド・ロケット』でも同様に。お疲れ様。


2024年4月13日(土)

 仕事部屋へ行き、原稿を書くつもりでいたけれど、予定変更。天気が良いのでベッドリネンの洗濯。それから部屋の片づけも。大がかりな模様替えを断行するならば、何としても荷物を減らさねば。
 今日手をつけたのは、机の脇に設置してある大きな棚。一旦全部出して、残すものだけを並べ直していく。並べ直しながら自問する。私はどこに何を置いて、どんな風に暮らしたいのだろう。雑誌に載るようなインテリアは嫌。自分の神経質なところ、そしてガサツさ、どちらも反映された部屋がいい。これまでの自分ではなく、これからの自分にとって使い勝手のいい部屋にしたい、そこもポイント。
 自分の望みを部屋という形にするには、自分の望みを知らないといけないわけで、だけど把握できずにいる部分もある。私の望みはところどころモヤッとしている。
 それにしても蔵書の量には、我ながらウンザリ。何とかしないと・・・。


2024年4月14日(日)

 朝食後、ベランダに出て、紫蘇とバジルのポット苗を鉢に植え替え。
 午後、車で青山へ。Iさんを拾い、有明までドライブ。好天ということもあり、銀座もお台場も結構な人出。
 30分でとある公共施設に到着。ここは自主制作映画の撮影場所を探しているときに見つけた場所。素敵な建物なのにいつ来ても全くといっていいほどひとがいない。Iさんとふたり、海を眺めながら互いの近況報告。青い空には羽田に向かう飛行機が。商社マンのIさんは明日から海外出張だという。

 Iさんと別れた後、有楽町へ戻り、Sさんと落ち合う。
「マンション建て替えの工事現場からこちらのベランダが丸見えだから、作業のない日曜日、週1回しか鉢植えの手入れが出来ない」と愚痴ると、「週に1回しか、じゃなく、週に1回園芸をする、と考えればいいんじゃないの」となだめられる。なるほど、確かに毎週花の手入れをするならば、十分まめまめしい趣味人だ。
 IさんもSさんもいわゆるサラリーマンで基本的に週末しか自由にならない。自分でスケジュールを組んで働く私とは違う暮らし方をする彼らの視点に、発想の転換を促されることもしばしば。そういえばIさんは、平日は夜しか家にいないから、部屋探しの際、日当たりはそれほど重視しなかった、と言っていたっけ。日が当たらなくなる、日が当たらなくなる、と大騒ぎしている私とは大違い。

 夕食後、久しぶりにカル・ジェイダーのアルバム『TOO LATE NOW』を聴く。心地良いヴィブラフォンの音のせいか、遅い時間でもないのにひどく眠い。一日中、陽を浴びていたためかもしれない。
 ラウンジチェアに腰掛け、うとうとしながら考える。この部屋、カーペットを剥がしてフローリングにしようかな。壁紙は濃い色に貼り替える。例えば、子供の頃に観たフランス映画と同じネイビーブルーに。賃貸物件だけど、原状復帰さえすれば文句は言われないはず。思い切って好きなようにやってみたい。
 Iさんが助手席で口にした言葉がふと浮かぶ。
「制限なしのお花見ができるのはコロナ後、今年が初めてなんですよね」
 改めて思う。4年は、やはり長かった。4年の間に私も、私の環境もずいぶんと変わった。4年前にやりたかったことといまやりたいこともだいぶ違うし、4年前に信じていた幸せといま信じている幸せの間にも既に隔たりがある。

 睡魔に抗えず、パジャマに着替えてベッドに入る。照明を落とし、目を閉じる。“5類に移行”の意味するところは、コロナウィルス罹患における危険は去ったということで合っているのだろうか。いまいち理解できていない。だけど、もう我慢しなくていい、そんな春が来たことは確か。ならば、少しは浮かれてもいいのかな。浮かれても許されるのかな。

 2024年4月。コロナウィルスが存在する世界で暮らす一週間。
 臆病な私は、まだどこかおどおどしているけれど――。
 「制限なし」と聞いても駆け出せずにいるけれど――。
 それでも歩み出すために、春へと歩み出すために、私はこの夜を眠る。眠りに落ちる。