RANDOM DIARY:COVID-19 猪野秀史

コロナウィルスが存在する世界で暮らす一週間。
宇宙の年表。小津安二郎とスライ・ストーン。
音楽フェスの延期。モニター越しの習字の授業。
目玉焼きをのせたナポリタン。猫道を抜ける。

2021年8月27日(土)

今日から一週間、久しぶりの日記。
日記と言えば今からちょうど一年前、約一ヶ月間の入院生活を余儀なくされ、その間毎日欠かさず日記を書いてたことを思い出し、読み返してみた。日々のルーティンからその日ぼんやり思ったことなんかが数冊のキャンパスノートに詳細に記してある。退院以来、初めてそのページを眺めてみると、ボールペンで書き殴った乱文。驚いたことに、あんなに辛かったことや嫌な思いをしたことを嘘のように忘れてしまっている自分がいた。何と愚かな。人間の本能がそうさせるのだろうか。コロナ渦の面会謝絶の病棟。初めての入院。約一ヶ月という時間のなかで、生死を彷徨う患者たちが激しく入れ替わる四人部屋。ここは地獄か!という内容もあれば、こんなに面白い場所はない!というものもある。誰かに見せるつもりもなくぎっしりと書かれた一年前の日記を読み、その時の情景や感情までもが鮮明に蘇る。日記と音楽は似ている。

日記と言えばもうひとつ。僕は小学校の六年間ずっと絵日記を書いてた。マメな少年だ。そもそも日記というのは誰かに見せるために書き記そうとすると、ろくなものにならない。だけどここでの日記は誰かに読まれる前提のものだ。さぁどうしようか。

大人になるにつれ、ありのままの自分でいるということの難しさに直面して来たが、ありのままでいることの素晴らしさに気づくと身軽になる。三センチ浮いているような感覚。「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」「世の中なんて、みんなが寄ってたかって複雑にしてるんだな。案外、簡単になるもんさ」どちらも小津安二郎の言葉だ。言葉はいつも僕の道を照らす。


2021年8月29日(日)

明け方五時、階段を踏み外して転げ落ちる夢で目を覚ます。
とりあえずお茶を入れて夢辞典で調べる。階段を落ちる夢の意味は、うっかりミスしてしまう警告夢とのこと。なるほど、気をつけよう。自分的に夢の啓示は意外に当たるので、注意するようにしている。ついでに話すと、いい内容の夢を見た時は誰にも話さない。逆に悪い夢を見た時は必ず人に話すようにしている。人に話してしまうと青い鳥のように逃げてしまう。マジで。

すっかり外が明るくなって来た。階段から豪快に落ちる夢を見て、ドリフの階段落ちコントを思い出した。悪夢の気分転換にユーチューブでコントを鑑賞。加藤茶と志村けんの息の合った間とリズム感。そしてアドリブが面白すぎる。家人が起きてくる前に、朝っぱらからドリフ。少しの罪悪感。朝から楽しい。お茶を飲みながら、昨日の日記を読み返す。うっかり日付を間違っていたことに気づく。夢の警告はこれか。

営業前の九時から恵比寿にあるカフェテネメントで打ち合わせ。なんにも考えてないような表情をしていて、結局なんにも考えてなかったスタッフに和む。

お店の選曲も済ませ帰宅。目玉焼きを乗せたナポリタンを作って中二の娘と昼食。昨年からの長い自粛期間ですっかり外食は減ってしまい、自炊することが多くなった。学校が夏休みに入ると昼と夜の自炊で大変だ。その分、料理のレパートリーが増えて来ている。数年前に買っていた無加水鍋を使ってポトフや肉じゃがをよく作る。基本的に食材を切って鍋にブチ込むだけだが、これがなかなか美味しい。多めに作っておいて次の日カレーにするパターン。これもまた旨し。カレーが三日続くと流石に嫌がられる。自分にとってカレーは永遠にイケるメニュー。
料理は始めるまで腰が重い。ただ、やり始めると無心になれて楽しい。人間は何かに集中してる時が一番心地いいらしい。最近は中華の香辛料を揃えるのも楽しくなって来ている。

九月に福岡で新しくスタートする音楽フェスに出演することになり、月末のスタジオリハーサルに向け、夕方からバンドアレンジの譜面を整理。感染者数が多いなかでの開催は気が進まない。このまま感染が落ち着くといいが。


2021年8月30日(月)

朝から灼熱の陽射し。亜熱帯東京。日課としている筋トレとストレッチ、そして青汁。ん〜不味い。午前中はデトックスの時間にしてるので基本食べない。そして、なるべく小麦も摂らないようにしている。たまに無性にパンを食べたくなる時は食べる。今朝は散歩がてら二十分くらいかけて代々木八幡のイエンセンまでパンを買いに。暑そうな表情で通勤する人の波と重奏的に聞こえて来る蟬の声。頭の中ではスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「Frisky」がループして止まらない。いつもの猫道を抜けて九時の開店と同時に到着。シャッターが閉まってるじゃないか。携帯で営業時間を確認しようとしたらシャッターが開いた。店の中から焼き立てのパンの香り。瓶詰めされたチェリージャムとロールパンなどを買って帰る。

自宅に戻るとアパレルブランドCOMOLIから宅配便が送られて来た。ライブで着て下さいとのご厚意。とても最高な白いシャツ。僕はステージがない限り、まず服を新調しない。気がついたら毎日同じものを着ている。

明日のバンドリハーサルのアレンジを仕上げる。Fender Rhodesの調律。機材のチェックを終えて歌と鍵盤の修練。バンドメンバーに使用してもらっている小さいシンセサイザーの調子が悪く何度も修理に出したが、こないだ七月に行った公演では、遂に本番中に電源が落ちるトラブルがあった。メンバーは口から心臓が飛び出るほど焦ったと話していたが、こういう時、お客さんはいつも楽しそう。仕方なく二台目を購入。

ちょうどこの日記を書き終え、パソコンを閉じようとした時、マネージャーから業務連絡。予定していた九月のフェスがコロナ感染拡大を考慮し開催の延期を決定とのこと。明日のリハーサルはとりあえず予定通り行うとの報せ――。

深夜、カフェテネメントの今月のプレイリストを作る。いつも脱線して色んな曲に出会う。いいと思ったものはレコードを探す。レコ屋のサイトを探しているうちにまた違う曲に出会う。進まない。


2021年8月31日(火)

開催されるはずのフェスの延期が決まった。こういう報告に最近はすっかり慣れてきた。出演する側も判断がとても難しい問題。今の時代は希望と絶望が同じようなバランスで行ったり来たりしている。

先日、ニール・ヤングがフェスの出演を断念する声明文を出した。
「みんなが音楽を聴きたいから、友達と一緒にいたいから、という理由で、人が死ぬかもしれない危険を冒すのは間違ってると俺の魂が言うんだ。」という印象的な一文。ロックを感じた。ロックとは音楽のジャンルではなく一つの生き方だ。

今日は久しぶりのリハーサル。ライブの延期が決まったが、スタジオのキャンセルも出来ない状況だったので、みんなで音を出すことにした。新しいライブアレンジを一曲ずつ伝える。頭のなかで鳴っていた音が形になっていく。デモ音源を作って演奏してもらうことも最近は多かったけど、今日は口頭でのヘッドアレンジで全曲進行。

音楽に限らず、自分が好きなものの共通点は、異素材、異文化、それぞれ違うものが混じり合って、一つのものとして形づくられたものに心惹かれる。そんなに深く考えてないけど、自分の耳に新しいかどうかだけ。音の判断なんて主観的なもので、いい音の社会的基準なんてない。 音楽によって日々の糧が得られることに感謝している。

今日は久しぶりのリハで猛烈に疲れたけど、スタジオで音を出すことにバンドメンバーも幸せそうでなにより!


2021年9月1日(水)

八月の終わりと共に夏が終わってしまった。急かされるような季節の移り変わりに、いきなり秋の訪れを告げられたような涼しさ。今年もあと数ヶ月で終わってしまう。容赦なく過ぎていく時間。宇宙の年表からすれば、人の一生なんて飯粒のようなものだ。子供の頃から親の期待する生き方を選ぶことなく、自分の思うまま過ごして来たので、どこか申し訳ないと感じたこともあったけど、宇宙からみたらそんなこと言ってる場合じゃない。窓の外を見ると小雨が降りだしてきた。

今年の夏も九州に帰省できなかった。実家の両親は二人とも健在で、もうすぐ八五歳を過ぎようとしている。毎年必ず一度は会いに帰っている。ただ、このご時世で二年くらい会えてない。田舎が遠く感じる。

夏休みが終わって今日から新学期の娘。始業式から帰宅。久しぶりに友達に会えて楽しかった様子。尋ねてないのに、自分のことや友達のことを小さい頃からなんでも話してくる。そして彼女は韓国のグループBTSのアーミーだ。娘も自分と同様に親の思惑通りには育たない。

夕方、連載中の雑誌の打ち合せから帰宅して、知人のSNSを見てリー・ペリーが八五歳で亡くなったことを知る。先週はチャーリー・ワッツ。国内では千葉真一さん、ジェリー藤尾さん。自分にとってヒーローのような存在の訃報が毎日のようにSNSのタイムラインに流れてくる。日本人が訃報に対し、R.I.P.を使った投稿を見かけると、どこか違和感を抱いてしまう。

もうひとつ誤解を恐れずにいうと、僕はあまり亡くなった人に対して残念だとは思わない。人間だから、死というものはいずれ!って思っている。お葬式に行くことも好きではない。ただ、残された人にはとても同情する。黒澤明の映画「夢」の最後の話に出てくるようなお葬式だったら、笠智衆のように花束を持って出席したい。この短篇集が好きだ。 これらの作品は生と死の間に横たわる時間を描いている。


2021年9月2日(木)

数ヶ月前、Apple TVで「1971」を鑑賞。スパイク・リーの「アメリカン・ユートピア」、「アメイジング・グレイス / アレサ・フランクリン」に続いて、今日は「サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)」を観に行った。劇場は席ごとにソーシャル・ディスタンスが保たれていて通常の映画館よりも居心地がいい。

それぞれの映画に共通してたのは、ミュージシャンたちの歌に込めたメッセージ。戦争、差別、失業、貧困、神。その時代の若者を中心とした叫びや思想が音楽となって鋭く代弁され、時代を超え力強いメッセージとして輝いている。

音楽に政治や宗教を持ち込むことを嫌う人も少なくない。音楽はそういった枠の外で楽しめる自由なものとして、いつからか僕自身もメッセージ性の強いものに正直そこまで関心を持つことができなかった。十代の頃に中古レコード屋でマーヴィン・ゲイの「ワッツ・ゴーイング・オン」と出会っても、歌詞の意味なんか深く理解しようとせずに聴いていた。ニュー・ソウル運動やニクソン政権下のアメリカとベトナムでの出来事くらいは知っていたけど、今回の映像に登場する人々の証言や歌詞の翻訳のされ方によって、どんな覚悟でミュージシャンたちが唄っているのか、それぞれの映像を通してリアルに理解できた。

そして、ソウルとロックを融合させ、異なる人種、男女が混合されたスライ&ザ・ファミリー・ストーンの編成の在り方に、先見の明を感じた。彼らの活動は「エブリデイ・ピープル」の歌詞にもあるような平和に対するメッセージや近年のBLM運動にも呼応している。後にデヴィッド・バーンや現在のダーティー・プロジェクターズにもその意志は受け継がれていると確信した。

今年は昨年に比べコロナ感染がさらに拡大していったなかで、自分の身は自分で守れ!と言わんばかりに、オリンピックが東京で開催された。僕の娘の卒業式や入学式、修学旅行も当然のように規制され、青春の何ページかは白紙となっているようだ。新しく入ってきたバイトスタッフの大学生も、やっと受験戦争を終え、大学生活をエンジョイできる!と思っていた矢先、全ての授業がリモートになってしまい、まだ一度も学校に行けてない状況だという。

「What’s Goin’ On」「ぼくたちはどこへ行くんだろう・・・」
どこか今の時代ともリンクする。自分にも歌いたいことがみつかりそうだ。


2021年9月3日(金)

朝からマネージャーと週一回の打ち合わせ。珈琲一杯が割といい値段するが、その分打ち合せに身が入る。ここは緑が多く自然を感じられる場所で、居心地も良くて長居できる。なにより地方にいるような気分になれるのが、ここに来る一番の理由。いつもケーキセットか抹茶の和菓子セットを頼む。以前はトムヤムヌードルというメニューもあって意外に美味しかった。静かな音で、竹内まりやさんの三枚目のシングル「セプテンバー」のインストバージョンが流れていた。

独立してから二十年くらい経つ。色んな工夫をしながら自分たちでやってる。冷静に考えると、カフェを運営をしながら作詞作曲して、自分で全て演奏して、それを自分で録音して、アルバムジャケットやビデオも自分たちで作って、自分のレーベルからリリースする行為はちょっと異常な気もする。アーティスト写真も自撮りするようになったら、さすがにヤバい。レーベルを始めた頃は右も左も全く分からなかった。レディメイドの長谷部千彩さんに手取り足取り教えていただいたおかげで、自分たちは今こうやって活動できている。今でも感謝している。大きな窓の外は霧雨が降っていて気持ちいい。

帰宅するとリモート授業中の娘。習字の時間とのこと。リモート用のパソコン画面を覗き込むと、クラスメイトたちが一斉に習字を書いていて、異様な光景だった。昨日作ったトウモロコシと蟹カマの炊き込みご飯が残っていたので、塩麹と中華の香辛料を加え、焼きめしにして一緒に食べた。見た目はイマイチだったが、最高に美味しい。