RANDOM DIARY:COVID-19 田中祐子

コロナウィルスが存在する世界で暮らす一週間。
市中感染ゼロの街。花を抱えて歩く自由。
図書館とおでん。家族を襲う新たな病。
ベッドの上で見つめたものは。

2020年11月11日(水)

真夜中、長靴を履いて虫除けをたっぷりして、花市場へと歩き出す。ベトナム・ハノイは四季があるといわれていて、いま束の間の秋。といっても日中は28度くらいまで気温は上がるので、朝晩の少し冷んやりした空気のこの時間帯こそ、秋を感じられて私は好きだ。夜中だろうと走り回っているバイクに気をつけながら、ハノイ最大の花市場に到着。多いときで週に2回はきているので、顔見知りも多い。声をかけたり、かけられたり、私が持っている花をみてどこで買ったの?と聞かれたり。とはいえ、covid-19発生前と後では店の数も変化し、メンツも少し入れ替わった。

仏花が大量に供され、咲き乱れる花を見ればその前でセルフィーを撮るのを欠かさないほど花をこよなく愛するベトナム。どんなときでも花市場は開いていて、街角の花々が絶やされることはない。covid-19によるロックダウンの際も「生活必需品」とみなされて、食料品店同様に開いていた。それでも、市場内の関係者で陽性者が一人出たときにはさすがに完全に閉鎖されてしまった時があった。雨に濡れた「市場閉鎖」と書かれた紙をながめたときこそ、covid-19がこの世界を覆っていることをいちばん痛感した瞬間かもしれない。花をいけることすら許されないのか、と。あの人たちにもう会えないのかもしれない、と。市場が再開されるか先行きの見えなさに猛烈な不安を覚えながら、場外の道端でたった二束の百合を雨に濡れながらひっそりと売る老夫婦から購入した。

あれから半年以上経ついま、国内のみならず世界からも届いた花を売りさばく卸しの人たちと、それを買いに来る人たちで真夜中の花市場はごった返している。そのほとんどの人がマスクなんてしていない。covid-19はもはや昔のことのような通常運行ぶり。

じつは市場閉鎖で花が手に入らない時期も、卸問屋や花屋がフェイスブックなどのSNSで通販をしていた。グラブバイクなどのデリバリーが盛んなこの国では生花を個人オーダーしたらすぐに手元に届く、なんていう抜け道もあっという間に開拓されたのだ。そこにニーズありと見れば見切り発車でもやる。「市場封鎖」の紙の前でおセンチに「およよよよよ」となった私と、かたや生きるため、花を売って生計をたてるためにすぐに新しいやり方を開拓するたくましいベトナム人と。明日が昨日と同じという保証なんてないという過酷な歴史にもまれた人たちの底力に感服しつつ、おセンチになっただけ損だった私は今日も無事に花をいけた。毎週水曜日のイタリア大使夫人との花の稽古。イタリアはcovid-19第3波の渦中にあり、大変だと聞く。日本も然り。お互いの祖国の現状を話しながら、covid-19が蔓延していないベトナムという特殊なお城のなかで暮らしているような気持ちになる。

部屋に閉じ込められるような「あの」生活の中、私を支えたのはおいしい食事、美しい花、窓から見える樹木の緑とハノイの街並み、音楽だった。余分にみえるものほど、人には必要なのだと痛感したあの日々。私はいま、夜の空気を吸いこみ、たくさんの花を抱えて歩く自由を、特殊な城のなかで満喫する。


 
2020年11月12日(木)

喘息持ちの子供たちを連れて渡越した3年前。海外にいてさらに海外出張の多い夫はあてにならぬからと、病院隣接の住まいを選択した我が家。この3年間数多くのピンチを数ってくれたこともあり、病院は物心両面で私の拠り所である。そのお隣の病院の若き病院長がこの日を最後に母国マレーシアに帰国するという。私のいけばなの師匠がこちらの病院の関係者で今は在ホーチミンのため、院長にお渡しする花束を依頼されて朝から製作した。お世話になった我が家からも「あなたは最後まで私たち家族の心の拠り所でした、感謝しかありません。ご健勝をお祈り申し上げます」という手紙とともに送別品をお渡しする。

依頼を無事に果たしてほっとしつつ、最近話題のフレンチベトナミーズの青年が出したカジュアルダイニングカフェの店でランチ。料理もおいしく、オープンしたてながら小さい店が中もテラスも満席。「密?それってなんです か??」という距離感でベトナム語、ヒンディー語、英語、フランス語、日本語が飛び交い、ハノイでは10日間だけと言われる真っ青に澄んだ秋空の下でのランチだ。

そこへ夫からピロ〜ンとラインが入る。「デング熱陽性」。たった一言。これは速報なのか? それ以上の情報ないのか? と心の叫びを抑えながら、「もしかして診てもらった先生って院長?」の問いに「そうです」と夫。嫁がさっきまでお世話になりましたと惜別の挨拶をしていた院長にその直後夫が受診、からのデング熱陽性……。今日のこのコントのような一連の展開と、夫が一般的には症状がかなり辛いといわれるデング熱に罹患したという事実を抱えたまま、学校関係のヘビーな打ち合わせへと向かったのだった。世の中、陽性といえばcovid-19。それが我が家はデング熱ですってよ。


 
2020年11月13日(金)

我が家のデング熱男(ねつお)は容体が安定していて、とりあえず自宅療養に。長袖長ズボンを着て、水分をたっぷり摂ることというのが病院の先生からのアドバイス。デング熱は蚊が媒介する病気なので彼を刺した蚊に他の人が刺されないようにするのが大事。だけれども子供もいるのでできるだけのことはしようと、トイレもシャワーもテレビもあるメインベッドルームに念のため隔離することにした。しばらくして隔離部屋を覗くと、半袖にパンイチで音楽を流そうとしているデング熱男を発見。その油断というかお気楽ぶりに猛烈に抗議して服を着せる。きけば、検温もしていないという。寝ていても手に届くところにポカリ、体温計、果物、湯、紅茶、氷水、消毒液、ティシュー、その他諸々をスタンバイ。

隔離部屋の扉をため息交じりに閉め、私はハノイユニクロ1号店へ。今日はジル・サンダーとユニクロのコラボ商品の世界同時発売日で、ベトナムも御多分に洩れず。いつもよりその売り場だけやや混んでいる店内で品定め。店内で知り合いに会うくらいハノイに日本人は多く、一人介せばだいたい知り合いぐらい狭い。駐在の独特な人間関係、世界だと思う。お互いに試着してみてどっちがいいかなんて相談して買い物を堪能。

その後にはベトナム北部の伝統的献立を提供するカフェで昼ご飯を食べる。古い団地の一階を改装していて懐古的な風景が美しい店だ。ベトナム人の若者で席は埋まっている。若者たちがこの古き良きベトナムの風景を一周回っておしゃれと感じるその感覚に、ベトナムの眩しい未来を思う。野菜、豆腐、肉、米。バランスよくたっぷりとしっかりとベトナム人は食事する。おいしい食べ方をよく知っているし、食に妥協なしのお国柄。日常のごはんがしびれるほど美味しい。
今日はさらにはしごして、ベトナムプロダクツの展示会をのぞく。それぞれのブースは、バファッローホーンから作られた櫛やアクセサリー、竹や木の食器やカトラリー、漆細工のインテリアやアクセサリー、はちみつやらエッセンシャルオイルやら刺繍小物やら、ベトナムのありとあらゆる特産品ブースが並ぶ。数週間前に毎秋恒例の「ハノイギフトショー」なる巨大展示会が終わったばかり。それは日本人が毎年殺到する名物行事なので、その直後とあって今日の展示会は客足もまばらだ。それでもギフトショーしかりこういった展示会しかり、ベトナムは市中感染がずっと0だからか、covid-19を気にすることなく普通に開催されている。「毎秋恒例だから開催」という当たり前が世界ではもはや当たり前ではないことを思う。
今日は13日の金曜日だね〜なんて友人と言っていたが、すこぶる楽しい1日だった。デング熱の人が家にいることを除けば。


 
2020年11月14日(土)

夜中から急激に体調が悪くなった。夫ではなく私が、だ。悪寒と猛烈な腹痛。明け方には体調不良を強烈に自覚するも、子供とデング熱男が我が家にはいるのだと思うと認めたくない事実だった。子供に朝食を食べさせながらそれを眺め(もう何も食べられる状況ではない私)、デング熱男に食事を運ぶ。デング熱男が検査のため病院に行き、私は自分の体調悪化を他人事にすべく、土曜日のルーティンをこなすことに集中する。日本語図書を置く小さなボランティア図書館に連れて行き、子供達の本を借りる。covid-19発生以降、しばらくはほぼ飛行機便が運行していなかったので、日本からベトナムに物を発送しても届きづらくなった。しかもなぜか関税が爆上がり。こんな事情のため日本語の図書を手に入れることがたやすいことではない。一方で、日に日に子供達は成長し、読む本のセレクトは変化する。それゆえ、ボランティアが運営する小さな小さな図書館に、毎週通っているのだ。やや朦朧としながら、子供に借りる本を選ぶように促す。
そして急き立てるように、次のルーティーンへと駒を進める。図書館が入るビルの1階にある「和食かつ居酒屋かつとにかくなんでもありますファミレス大衆食堂」的なレストランに移動して昼食を取らせる。最初は空いていた席が私たちを取り囲むようにどんどん満席に。しかも昼間からのサラリーマン大集合うちあげ会×5くらいの人の多さで、密とか会食とかの集大成みたいな空間に仕上がっていた。covid-19の発生とロックダウン明け後しばらくは、席と席の間にはテーブルにガムテープで×のマークが貼られ、隣り合わないように座っていたよなと破壊的に痛む頭で回想するも、日常をとりもどしたベトナムではもはやそんなことは幻。
刻一刻と体調が悪化するのを自覚しながら、くんずほぐれつしつつ戯れつづける子らを叱りつけながら食料品の買い出しをして、帰宅する。「もっとおでかけしないの〜? したかった!!!」という無慈悲なる子らの声を聞き流しながら、数回倒れつつおでんを大量に仕込む。しばらくこれを食べさせてしのぐ心算で。


 
2020年11月15日(日)

一晩しっかり寝ればはいスッキリ!の予定が一晩しっかり眠れないほど体調が悪い。寄る年波のせいか、はたまた猛烈な風土病にでも罹患しているのか。しかし、今日は学校で習わせている週末スイミングレッスンの記録会。体調横ばいのデング熱男と絶賛不調をキープの私。二人でなんとか一人分の体力で子らを連れて行く。

我が子たちはNYにある国連学校の唯一の姉妹校であるインターに通わせている。今週はUNDAY(国連の日)があり、かつSDGsweekだったので、予約制で人数を絞ったうえで保護者も久しぶりに校内に入ることが許されていた。コロナ発生直後の2月頭からすぐに休校・ディスタンスラーニングが開始され、5月に学校が再開されたあとも一切の保護者の立ち入りが禁じられたままなのだ。こうした迅速さかつ徹底ぶりこそベトナムが「コロナを忘れられる城」を作り上げられた一つの要因だろう。細かく割り振られた予約時間に校内をちらりと覗く。巨大な校内に人影はまばらで、完璧なソーシャルディスタンスのコントロールぶり。入校時はもちろんのこと、空港のような検温システムが校内に各所に設置されているので、夫婦のどちらかがひっかかるかとヒヤヒヤしたが不思議なことにスルー。夫婦揃って病で失われ続ける体力を、気力でカバーして帰宅する。

こんな状況だったのでこの日については少し時差ありで日記を書いているが、もののみごとにこの後の記憶がまったくない。病とは恐ろしい。体力はもちろん、記憶すら奪っていくとは。


 
2020年11月16日(月)

インターは休みがとにかく多い。休みと休みの間に授業があるのか!?というほど休みが多くてしかも長い。夏休みなんて2ヶ月だ。しかもベトナム文化では年末年始は重視しておらず、旧正月(テト)を大切にしているので、インター本来の休みである冬休み(通常1ヶ月)に加えて、テト休み(通常2週間)まである。本当に休みすぎである。ちなみに春休みも秋休みもある。休みの理由を探しては公的な休みにしているようだ。しかし、子供のこの休みに合わせて休めるのは教師くらいで、他の職業の親はナニーを手配したり、そのために休みをもらったりするしかない。何が言いたいかというと、今日は学校が休みでうんざりなのだ(professional development day という名の休み、なにそれ)。

絶不調な私。デング熱男。元気一杯の子供たち。しかもデング熱男は2日に一回と決められた受診の日で、さらには日本から買い付け代行を頼まれているお店のセール開始日なので私は朝からその店に行かねばならず、時間と体力を持て余した子らを引きつれてセール会場へ向かう。

子らが好きな本とお菓子を持たせて行くも、うろうろする子供たちにイライラ。しかもうち一名は突然首が痛くてたまらないと泣き出す。夫婦の体調不良もあって、悪い方向にしかその症状が捉えられない状況。さっさとリモート買い付けを終え、子供達を車に押し込んでどこにも寄らずに帰り、さすがに私も今日は受診しようと家路を急ぐ。そして車中で病院に電話し、二人分の受診枠を予約する。私の症状は悪化する一方で、病院のレセプションに子供と自分の生年月日を英語で伝えることすらたどたどしくなる。電話を切った直後、デング熱男からまた速報。ラインには「検査結果悪化で転送・入院」の文字。必死で詳細を聞き出すと、入院荷物はいったん家に帰って自分でまとめ、看護師に付き添わされて病院の専用車(こちらは救急車がないのでこれが救急車みたいなもの)ですぐに移動するとのこと。なんて日だ! こんな短絡的な言葉しか思いつかない。

帰宅したその足で私と子供が受診するも、夫は転送済み。そして、まずは泣き叫び暴れる子供を残された力全てを使って押さえつけて採血やら検査を行う。大仕事をおえ、私は病院のベッドにそのまま倒れ込み、各種検査やら点滴やらを開始。あっという間に時は過ぎるも症状の改善が見込めず、一つのベッドは私、もう一つは子供たちが占拠したまま夕方になる。子らは看護師さんたちに食べ物をもらったり、話してもらったりなど盛大にかまってもらっていたが、さすがに限界。同じマンションに住むママ友に連絡して迎えにきてもらう。震える手で打つラインの次のメッセージがそのママ友に届く前に、もうママ友は私の病室にきてさっと連れて帰ってくれた。

症状は横ばいのまま夜20時過ぎまで処置をして帰宅した。夫は入院先の大きな病院での精密検査でもさらに数値が悪化しているという。我が家の玄関まで送ってきてもらった子供たちはママ友のおうちで愛でてもらって、風呂上がりのピカピカツルツルの眩しさ。子供達の「帰ってきたくなかった」というコメントに「申し訳ございません」と業務的に謝罪して、就寝していただく。
家を病院の隣にしてよかった。covid-19疑いのない状態の国で、すぐにそれぞれの診療が受けられる環境でよかった。covid-19が流行していないからこそ、ママ友にも躊躇なくヘルプが出せた。明日からは通常通りナニーさんも来てくれる。最低の状況下で、最高の環境に感謝するタフな1日がなんとか終わった。


 
2020年11月17日(火)

昨日よりマシな気がする(と信じたい)朝を迎える。子供の学校の支度を最低限済ませ、朝食からスクールバスへの送り出しをママ友に頼る。子供を送り出せてホッとしつつ、食欲はまったくなくむしろ薬を飲んでもそれで吐きそうになる始末。まずいなあと思っているところへ病院から電話があり、速やかに再受診を促される。エレベーターを降りて数歩歩けば病院に到着するのにそれでも大量の冷や汗。昨日は点滴6本。さらには抗生剤や頭痛への薬、吐き気止めなども点滴された。

今日も早速点滴が開始され、毎分のように訪れる患者さんの声をBGMにひたすら天井やら扉やらを見て過ごす。改善がなかなか見られず、状態や改めての問診などもされるがどんどん単語が出てこなくなっている感じすらする。朦朧としながらも、子供が学校に通い、夫は別の病院に入院し、自分が連日点滴を受け続けられることにひたすら感謝していた。この3つのベーシックが当たり前ではない国のほうが多数である現状を思わずにはいられないからだ。

病気になったときはやはり日本にいたい、というのだけが今まで私と日本とを繋ぐ何かだったことに気づいた。今はもうその何かすら事情が違ってきている。パンデミックは私の小さな世界観すらもしっかり変えていたのだ。ベトナム語と英語でかかれた「倉庫」の文字をベッドで横になりながらじっと見つめ、その事実をかみしめる。本当に他人事として私が処理したかったのは、病気をしているということではなく、日本で暮らす「私」が想像できなくなってしまった焦燥感みたいなものだったのかもしれない。