第十六回 心と向き合う美術鑑賞
先日、京都の歴史ある寺院の副住職とお話しする機会を頂きました。時代の変化にあわせた寺の役割のアップデートに取り組んでいる方で、お堂の中にアート作品の展示をするなど、革新的な活動をされています。
聞くと、アート鑑賞には座禅に近い瞑想体験があるのだとか。確かにアート作品というのは、赤の他人であるはずの作家という第三者の表現行為であるにも関わらず、その鑑賞を通じて自己の内面を掘り下げるような時間を提供してくれるものです。
2020年、東北芸術工科大学が主催する«みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ»が開催されました。4回目となる2020年は「全体性を取り戻す芸術祭」と題され、芸術監督を医師である稲葉俊郎氏が務めたことでも注目を集めました。芸術祭を通じて「いのち」の根源を見つめ直し、「いのち」を取り巻く全体性を取り戻そうという試みです。
全体性とはギリシャ語のholosであり、健康を意味するhealthの語源となっている言葉です。アートをめぐる体験を通じて、心身、さらには精神をも含めた「いのち」を考察するというものであり、この時代におけるアートの存在意義を改めて問うような興味深いものでした。
考えてみればアートとは、誰かに頼まれてやる(制作する)ものではないことは明白です。作家本人が心から感じる「やりたくてしかたのないこと」や「やらざるを得ないこと」が表現の結果として表れているのだろうと思います。
アートの専門的な教育を受けていない人による作品を指して、アウトサイダーアートとかアール・ブリュット(仏語で”生の芸術”の意味)と呼びます。作家に共通するのは第三者からの評価を求めていないということ。そこにある作品は全て本能的な欲求や、衝動にも似た表現の結果です。
私たちは鑑賞者としてアート(作品)と触れる機会を得ているわけですが、アートの専門的な領域での作品としての評価を問わなければ、誰しもが表現者になり得る可能性を秘めています。改めて考えてみると、表現するという行為(その時間)そのものがアートの最も重要な役割なのかもしれません。
フラワーアーティストの塚田有一氏から以前、軽い体調不良程度なら花をいけることで良くなることがあると聞いたことがあります。何かを表現するということは、自分と向き合うことであり、それは「いのち」をとりまく全体性を取り戻すということなのでしょう。山形ビエンナーレの試みが伝えてくれるのはこういったことなのかもしれません。まさに今の時代に呼応するような芸術祭だったのだろうと言えます。
忙しい現代人にとって自分と向き合い表現する時間を確保するというのは、場合によっては簡単なことではありません。だからこそ鑑賞の重要性が同時に湧き上がってきます。
作品を鑑賞することで、何らかの感動を得るということがあります。感動とは表現活動を行っている作家の営みを、その痕跡である作品から追体験するようなことなのかもしれません。作家はその表現の過程において自己の内面に何度となく深く潜ります。あるいは幼少期の衝動のように無我夢中で表現活動に没頭して取り組むこともあるでしょう。その凝縮された時間が定着したものが作品であり、私たちは鑑賞を通じてその作家の「時間」を体験し、その過程にある心の躍動を感じているのかもしれません。
遠出を控える生活も長くなってきました。たまには絵筆を握ってみるのも良いかもしれません。写真を撮るのも良いし、言葉を綴ってみるのも良いと思います。表現する行為そのものがアートの本質的な価値だとすれば、誰かに観せることを前提にせずとも構わないと思います。自分と向き合ってみる時間にこそアートの価値があるのだろうと思います。