美術館への行きかた。

第十四回 読む美術

この連載のタイトルは「美術館への行きかた」としている。とはいえ「行きかた」も何も、どこもかしこも美術館は休館している。それどころか出かけることすらままならなくなってしまった。ならばというわけでもないのだけど、久しぶりに文芸誌をネットで購入した。購入したのは『文學界』、美術作家の会田誠が小説を連載するというので興味をもった。

日本全国に数多くの美術大学や芸術大学が存在している。美術教育を専門とする大学ではなくとも、芸術系の学科を設置している大学も合わせるとかなりの数だろう。にもかかわらずその中でも「ゲーダイ(芸大)」といえば東京芸術大学を指す愛称だ。

芸大には上野校地の敷地内に大学美術館があり、常時企画展が行われているほか、卒業シーズンになると卒業制作展と呼ぼれる卒業生による作品展が行われる。芸大に限らず美術大学では卒業の審査は、論文ではなく卒業制作と呼ばれる作品制作が主流だ。

芸大美術館はコレクション展も面白い。過去に芸大生だった者たちの卒業制作の優秀作品を収蔵しているわけで、これは見応えがある。
美術館にはミュージアムカフェもある。何が行われているのかまるで外からはわからない、芸大の雰囲気くらいは感じられるかもしれない。

僕もかつて芸大で学ぶ者の一人だった。僕が芸大に合格するまでには2年間の浪人生活を必要とした。芸大受験においては、志望学科によって多少の違いはあれど、ほとんど避けることができないのが、石膏デッサンと呼ばれるものだ。いくつかの学科では、そのまま一次試験の課題にもなっている。余談だが芸大の入学試験は一次試験で数が絞られ、二次、三次試験を経てようやく最終合格となる。

芸大受験の浪人生活というのは、来る日も来る日も精神鍛錬かのごとく、石膏デッサンを繰り返す。これが全く時代とともに変化しないから不思議だ。芸大を目指す若者の多くが画家を目指すわけでもないというのに、それでも画力のトレーニングを強いられるのだから。

入学希望者自体が近年減少傾向にあるとは聞くが、それでも未だに入学倍率の高さでいえば「超難関校」ということになる。この狭き門をくぐり、美術作家として生計を立て、さらには大規模な国際展にも招待され、美術館での個展も行う現代の作家の一人が会田誠である。

小説の冒頭にプロローグに変えるかのように本人の言葉がある。各所で美術作家としてインタビューを受け、作家になった経緯を話すもののいつも、言い足りないフラストレーションが残るそうだ。そして小説というスタイルを思い立ったとある。以下に一部を引用する。

僕が伝えたいのは、あの頃の細部(ディティール)であり、質感(テクスチャー)だ。そして「神は細部に宿る」の言葉通り、そういう微視的な語りの先に、巨視的な語りがおぼろげながらも出現することを期待したい。

これならば美術館に行かずとも、美術作家の思考に触れられるのではないかと期待しながらページをめくることにする。美術作品というのは作家の思考や内面を深く抉った結果の創出である。ではあるがそのプロセスに触れることはなかなかできない。会田誠の小説にはその人生という壮大なプロセスの一部に触れられることを僕は期待している。

文學界 2020年3月号。5月号までの短期集中連載ということなので読みやすい。バックナンバーも購入可能。