第九回 美術の外側にある美術
書の作品や、生け花などはその物やその美しさを指して芸術と称されることはあるけれど、美術館で目にする機会はあまり多くはない。
これは作品のクオリティがそうさせる訳ではない。書や生け花というものには「道」という概念があり、書道、華道となる。これは精神性も含めた鍛錬を指すものであり、師範と呼ばれる人の追従モデルであるために、美術の領域ではあまり扱われないのだと考えている。逆にいうと美術というものは、二番煎じではダメなのだ。現代の美術は「前衛的」であることは大前提なのだ。
一方でアウトサイダーアートと呼ばれるものがある。一般的には目にする機会の多さも手伝って、精神疾患等障害を持った人による表現活動を指すものと思われているように感じる。しかし、本来は西洋を中心とした芸術に関する専門的な教育を受けていない人による表現を指すので、実例としてあるのは、犯罪者によるものや、隔絶された地域の少数民族によるものなども含まれる。
もっと言うと「西洋」ではない私たち日本人の表現だってアウトサイドな訳である。美術の中心は西洋なのだ。故に一般的に美術史と言うと西洋美術が大半を占める。そして気づかされる。どうやら美術には内と外があるということを。美術を中心に見ると前述した「書」などは外にあるのだ。そしてそれは特殊なキュレーションなしには美術に接続し得ないのだろう。
美術の内側というのは、制度としての美術という点もあるが、端的に言えばやはり文脈が与える価値というものが大きい(文脈に関しては本連載第二回「印象派から考えるアートの文脈」をご参照いただきたい)。 では外側はどうかというと、ここまでに書いた通りなのだが、書道や華道のようなものと、アウトサイダーアートと呼ばれるもの、この二者は異なるものでありながら、美術の側(がわ)が作品として扱わない限り、美術にはなり得ないという点において、共通してそこに存在している。アウトサイダーアートの制作者の多くは美術作品として認められることを目的として活動していない。脅迫観念にかられるように絵を描く者、とりつかれたように彫刻を作る者。あるいは特定のゴールを持たない者もいる。それが美術として引き上げられるのは、美術に深い理解を持った者が側(そば)にいる場合に限る。
ヘンリー・ダーガーというアメリカのアウトサイダーアートを代表する作家(本人にその気は多分ない)がいる。膨大な量のストーリーからなる『非現実の王国で』というファンタジー小説の執筆を19歳で始め、81歳で無くなる直前まで書き続けた。その世界観は挿絵とともに高く評価されているのだが、これが世に出たのは本人の意思によるものではない。彼はアパートの自室で書き続けただけであり、誰にも見せなかった。世に出たのは、アパートのオーナーであり、自身もアーティストだったネイサン・ラーナーによって発見されたのだ。もし、ラーナーがアーティストではなく、美術(芸術)に造詣が深い訳でもなかったら、ただのゴミとして扱われていただろう。
アウトサイダーアートは見る側に緊張を強いるような表現としての強さが備わっていることがある。それは人間の生に近いピュアな活動によるものだからかもしれない。フランスの画家であり彫刻家のジャン・デュビュッフェはアウトサイダーアートという概念が根付くよりも20年ほど前に、より狭義に精神疾患者の作品のみを指して「アール・ブリュット」と呼んだ。日本語では「生の芸術」と訳されている。こういった作品を扱う展覧会も一時期ほどではないが増えている。そこには表象的に現れる図像以上の深淵を垣間見ることができる。
ところで、美術は常に前衛でなくてはならないと書いたし、僕はその通りだと思っている。作家に対して「そんなの既にやられているよ」と言うだけでその作品は終わる。ならばアウトサイダーアートという概念は崩れ去る。美術家たるや常にアウトサイダーなのだから。