美術館への行きかた。

第八回 落書きの芸術性はどこにあるのか?

今年1月、東京都・港区の防潮扉にバンクシーの作品らしき落書きがあると話題になった。これらの落書きはグラフィティと呼ばれ、バンクシーとはおそらく現代で最も影響力のあるグラフィティ・アーティストの一人だ。落書きされた壁が本人の意思とは別に、作品として売買されることも少なくない。2018年10月にはオークションにかけられた壁画が1億5000万円で落札されると、ほぼ同時に額縁にあらかじめ内蔵されたシュレッダーによって裁断され、いかにもバンクシーらしい演出にSNSなどは大いに沸いた。その矢先のこのニュースだ。盛り上がるのも当然だろう。

その数日後には東京都知事自ら落書きの前で写真を撮り、たいそう嬉しそうなコメントとともにTwitterに投稿したことで、さらに賛否両論巻き起こった。そりゃそうである。公共設備への落書きを喜ぶ知事なんて聞いたことない。とは言え、落書きの是非や、現職都知事の品格をここで問うつもりはない。このことを美術の文脈から考えたいというのが今回である。

そもそもグラフィティというのは、落書きの一種である。公共の壁や屋外広告などをキャンバスとして描かれるそれらは、社会や政治への強い批判性を内包している。商業広告の上に描かれる落書きは広告を中心とした商業主義や、資本主義への批判であり、バンクシーの作品の多くは政治や国際的な問題を批判しているものが多い。

他方では、「タギング」と呼ばれる自分の名前を残すような落書き行為があることも忘れてはならない。これらは批判性というよりも縄張りの主張に近いものだと考えられる。私有の壁には描かないなど、アーティスト同士の暗黙のルールもあるようだ。

さて、グラフィティという落書き行為をアートとして受け止める背景には、この批判性と美術館の中で公開される美術作品以上に多くの人の目に触れるという公共性が成し得ていると考える。この批判性というのは、イリーガルでゲリラ的な活動だからこそのものでもあったりする。グラフィティは世界のあちこちで問題視されている側面ももちろんある。落書きだもの。対策の一環として、公共の壁の一部には合法的に落書きすることを許可したものなども存在するのだが、僕はここにグラフィティとしての魅力をあまり感じない。ティーンエイジャーのためのストレス発散の場所のようであり、作品としての価値は見出しづらい。

つまり、今回のバンクシーの一件に関して言えば、都知事がニコッと並んで撮った写真を公開し、落書きが施された壁を回収、保管した瞬間に(今回はこのような措置が取られた)、そこに込められた本来の意味性は失われたに等しい。グラフィティにとっては描かれている場所すらも意味があるはずだから。

ところで、有史以前の壁画は世界中の至るところで発見されている。その多くは狩猟の風景などを描いているものだが、そこに描いた人間の手形が残されていることは少なくない。動物の骨をストロー状にして、そこに染料を詰め、エアブラシのように手の上から吹き付け、形をとるのだ。そのような行為は世界中で共通してみられる表現活動だという。

一説によると描いた人間の署名のようなものだというのだから、まさにタギングと同様の行為ではないか。落書きは、ある人には公害のようでもあり、ある人には美術でもあり、文化でもある。有史以前から脈々と続く表現活動だったのかもしれない。

この原稿を書いている最中の2月9日。有識者数名による東京都のとった「撤去・保管」という作品の取り扱いに対する要望書が都知事宛てに提出されている。下記よりその全文を見ることができます。
外部リンク:バンクシー作と思われる「作品」の取扱いに関する要望書

アーティスト集団のChim↑Pomは、渋谷駅にある巨大壁画「明日の神話(岡本太郎)」に福島第一原発事故の直後、事故を思わせる絵をゲリラ的に付け足した。

ラス・マノス洞窟(アルゼンチン)の手形。幾重にも重なる様はまるで落書きの上に落書きが施された渋谷の一角のようでもある。
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