美術館への行きかた。

ゲージュツの守備範囲

先日はグラフィティ・アーティストのバンクシーの作品がサザビーズでオークションにかかり、100万ポンドで落札されると同時に、額縁に内臓されていたシュレッダーにより切り刻まれ、たいそう話題になっていた。グラフィティというのは、渋谷等の街で見かける落書きの総称であり、それがサザビーズで高額で取引されることにまずは驚く。

話は変わるが、東京オペラシティ アートギャラリーでは、建築家・田根剛の展覧会が行われている(12/24まで)。大型の模型から、リサーチや、設計のプロセスの一片までが展示されており、氏の思考に触れられるようで興味深い。その他にも、どこそこで漫画の展覧会をやっているとか、東京芸術大学にはゲームの学科ができるとか、近年美術界隈は美術以外の話題で忙しい。

僕たちはなぜ、美術館へ美術以外のものを鑑賞しに出かけるのだろうか?

2007年、東京都現代美術館のチーフキュレーターに就任した長谷川祐子が最初に手がけた展覧会は「SPACE FOR YOUR FUTURE」と題されたもので、美術はもちろん、建築、ファッション、デザインといったあらゆる領域を横断したものだった。出展作家は、石上純也(建築)、蜷川実花(写真)、タナカ ノリユキ(グラフィック)、フセイン・チャラヤン(ファッション)、といった「美術」の周縁で活動する人たちが半数程度を占めていた。

それは、21世紀初頭のインターネットが急速に「社会化」していき、あらゆる情報に一個人がリーチすることができるようになっている時代背景にも、まさにマッチする展覧会であった。この時代にこそやる意義があるものだったろうと思う。開催趣旨に記されたキュレーターの言葉を一部抜粋する。

21世紀の特徴は、個人が情報化され、価値観も多様化し、一方で多層なネットワークが発達したことです。(中略)
私たちの身体や世界が環境、政治問題を含めてより複雑な状況に直面しており、異ジャンルの横断、協働(シナジー)はこの状況を共に生き延びていくための切実な手段の一つとしてたちあがってきている点なのです。

今日における美術作品の価値とは、単に出来の良し悪しを評価するものではない。装飾品を指して「芸術的な美しさ」などと形容することはあるが、実際の美術作品は「美しさ」「華麗さ」などを目指しているものは少ない。 むしろ、その作品は現代において、私たちに何を訴えかけるのか?現代に存在することの意義は何か?作家はそこにどんな背景を詰め込んだのか?と言ったことと、美術の文脈の線上にいかに接続するか、ということが問われている。そう考えると美術の周縁の表現活動を、美術の文脈の中に入れ込むことでキュレーターが、観るものに何を提示しようとしたのかが見えてくる。「SPACE FOR YOUR FUTURE」では、混沌とした21世紀初頭の状況を横断的に多数の表現領域を巻き込むことで考察したのだろうと伺える。

もちろん、これはキュレーターに限った話ではない。作家の中にも領域横断的な活動をする者がいる。前述のフセイン・チャラヤンの大学の卒業制作は、鉄を用いて制作したドレスを数ヶ月、土中に埋め腐敗させたものだった。ドレスでありながら、着ることを拒むようであり、ファッションとは何か?という問いを垣間見る。

ファッションにせよ、建築にせよ、元はある種の機能を持っている。その機能から少し距離をおいて、現代における意味性や、人との関わり、あるいは周囲や空間との関係性などを考えるのには、美術館はふさわしい場所でもあると思う。実際に建てられた建築物を訪れることでしか、体験し得ないものはもちろんある。しかし、美術館で俯瞰的に鑑賞することで思考が巡ることもたくさんある。

間違っても東京芸術大学に新設されるゲーム学科は流麗な3Dグラフィクスを突き詰める場ではない(はずだ)。現代アートの周囲では常に「これのどこがアートなの?」という会話が聞こえてくるし、そう言ったものも確かにある。けれども、それを考えること自体がアートとも言えるのかもしれない。

彼の落書きならば喜ばれる変な人(Banksy ウェブサイトより)

SPACE FOR YOUR FUTURE展公式サイト。Flashバリバリでもはや時代を感じる。(東京都現代美術館公式サイトより)

芸大ゲーム学科は2017年に展覧会という形で一度行われている。(「東京藝術大学ゲーム学科(仮)」展公式サイトより)