美術館への行きかた。

第三回 キュレーターというもう一人のアーティスト

最近では「キュレーション」という言葉がネット世代を中心に一般的なものになった。ことの発端はおそらく2016年のキュレーションサイトをめぐる諸問題なのだろう。キュレーションサイトというのは、なんらかのトピックスに関する情報をまとめて、編集し発信しているウェブサイトのことだ。キュレーションサイトの諸問題に関しては、報道などでも随分出ていたことだし、たくさんありすぎるので割愛するが、端的にいえば、法的にも商売の手法としても、その中身にも問題があるものが散見され、あるものは閉鎖したり、あるものは中身を見直したりと、業界全体にメスが入ったような感じだ。そんなわけでキュレーションという言葉を検索するとそれに関連するようなものがずらりと並んでいる。キュレーションサイトの問題に触れたキュレーションサイトも、当然存在している。

しかし、キュレーションをする人を指す「キュレーター」という言葉で検索をするとその文脈はまるで異なってくる。そこに並ぶサイトや記事は、キュレーションという活動によって、ある視点を社会に投じる美術界の専門職としての話がほとんどだ。キュレーションという言葉は、元は美術に関する言葉として知られていた。

キュレーターの仕事は端的にいうと展覧会の企画だ。美術館で観る展覧会には大きく2つのものがある。一つはコレクション展。美術館の機能の一つは「保管」である。この保管した展示品のいわば「ご開帳」がコレクション展だ。二つ目は企画展。どちらかと言えば、キュレーターの存在感をより強く感じるのはこちらの方だろう。展示室の入り口にキュレーターによる企画趣旨なども掲げられていることが多い。企画展はあるテーマに基づき、編集された作品群によってメッセージを発する展覧会である。そのテーマ、作家、作品、展示方法、同室に何を置くか、などを考えるのがキュレーターの仕事である。もちろん時代性、地域性、社会性など多くのことを考えるのであろう。また、作家との協働も多いはずだ。時に漫画家と担当編集者のように協力して新作を生み出すこともある。ちなみに、筆者はキュレーターの実情など知らないものだから、この辺はとても雑にまとめている。それから、ルーブル美術館で日本の芸能人が最近展覧会をやるとか、やったとか話題だが、そこにキュレーターはいない。いるのはマーケッターのみである。

僕自身がキュレーター、あるいはキュレーションという言葉を初めて知ったのはおそらく、1999年に世田谷美術館で開催された「時代の体温 ART/DOMESTIC」という展覧会を通じてのことだった。東京藝術大学を目指し、浪人生活を送っていた、当時の僕にとっては、週末ともなればあちこちの展覧会、ギャラリーなどをめぐる日常だったのだが、世田谷美術館は公立の美術館ということもあり、どこか堅い印象の展覧会ばかりやるようなイメージが先行し、あまり注目をしていなかった。

友人に誘われて訪れたこの展覧会の衝撃があまりにも大きかったことを今も覚えている。まさに生暖かい「体温」を伴う国内の現代美術という世界の生々しさを、まざまざと目撃してしまったのだ。認識の誤差や、理解の深度に違いはあるだろうけれど、「時代の体温」という展覧会は、日本の現代美術、あるいはその作家というものを包み隠さずに伝えてくれるものだった。
「時代の体温」のキュレーターは東谷隆司氏という方で、残念なことに2012年に若くして亡くなられている。

これは僕の個人的な考えだが、作家は何らかのテーマを持ち創作活動を続けている。それは作家自身の内面に向くこともあれば、社会あるいは世界で起きている外的要因に起因する場合もあるだろう。キュレーターは作家ではない。だが、一人の作家のテーマではなく、作品の集積として多角的でかつ奥行きがあるメッセージを世界に向けて投げかけてくるのがキュレーターだと思う。あるいはそれまで見えなかったものに、光をあてるとも言える。言い換えると、キュレーターの視点を掘り下げて考えることは、今僕たちが見つめるべき事象への示唆につながる。

ところで、キュレーターの語源はキリスト教の司祭に由来するらしい。なるほど、道理で複雑怪奇な現代社会で、進むべき道を示してくれるわけだ。