第一回 はじめに、この連載について
少し前に流行ったお笑いのネタで「ゴッホより普通にラッセンが好き」というのがあったのは記憶に新しい。多くの人が笑っていたことを考えると、一定数の「共感」を得ていたのだろうと感じる。何が共感を得ていたのかと考えると、皆、普通に、ラッセンが好きなのだということだ。
正しくは、「好き嫌い」ではないだろうと察しはするものの、皆が一様に感じてるのは、何を描いているのかわかりやすいとか、「素敵」「綺麗」と言った認識をしやすいのは、ゴッホよりラッセンだということなのだろうと思う。反面、美術としての評価は圧倒的にゴッホなのだから笑える。余談だが、ラッセンは美術の本流には乗っていない。作品に込められた意図もさる事ながら、作品の「売り方」に寄るところも大きい。
上野には美術館や博物館が多数存在しており、日本のルーブルなんていう構想もあった場所である。もちろん東京藝術大学の存在も欠かせない。そんな上野で美術館の入場に列をなすのは大抵シニア以上の世代だったりする。都内を見渡すと私設の美術館も多く存在する。古くは青山のワタリウム。品川にある原美術館。最近なら六本木の森美術館など。それらの美術館には若い人がたくさんいてびっくりする。みんないつからそんなに美術に関心を持っていたの?なんてよく思う。
極端な言い方ではあるけれど、上野で芸術に触れる人たちの多くを、僕は「知っていること」に依存している人たちなんだと認識している。著名な画家の展覧会であるとか、有名な絵画が展示されているとか。はたまた、描かれているモチーフがわかりやすいとか。ここで開かれる展覧会の多くは、過去の著名な作家の展覧会だとか、国宝の特別展示とかだから。
反面、青山や六本木に来る人の多くはもっとカジュアルに、ファッションに近い感覚で美術に触れているのだろう感じる。90年代には電車の中で『studio voice』を読んでいることがオシャレだったように、最近であればinstagramはやってないとダサい(という認識すらもはやダサい)というように、足繁く美術館を訪れることは洒落ているんだ。きっと。
これらの事象は日本におけるアートの教育、もっと言えば、「鑑賞」の教育が欠落していることにも起因している。この国では誰もアートの存在意義など教えてくれない。ここに偏見に満ちた超訳的な解釈をもとにした、美術の鑑賞術を述べてみたいと思い至った。だってアートを論じる書籍は多いけれどどれも難解だから。だけど、ほんの少しの知識とコツさえあればアートの見え方はガラリと変わってくる。
以前、パリにあるカルティエ財団美術館を訪れた際に、たまたまやっていたのがグラフィティの展覧会だった。いかにも若い人向けの落書きの展覧会。そこに買い物帰りであろう老夫婦がスーパーのビニール袋を抱えて入場していた。会話の中身まではわからないけれど、二人でああでもない、こうでもないと議論していたのがとても印象的だったのを覚えている。そんな未来が来ればいいのにと、微量な願いを込めて。