2021年のクリスマス

文・長谷部千彩

 石油ストーブに火をつけると、小さな音を立て、小窓の奥で青い炎が丸い円を描くように広がった。十時開店の予定が、時計の針は十一時を過ぎている。今日は店に来るのが遅くなってしまった。
 ガラス窓から差し込む陽射しは明るいけれど、吐く息は白い。古い長屋を改築したカフェを居抜きで譲り受けたこの店は、空調設備は整っているものの、ちっとも効かない。だから毎朝こうしてストーブの側にしゃがみ込み、暖を取りつつ、炎を眺め、室温があがるのを待つのが日課になっている。

 昨夜は、家族でクリスマスパーティをした。と言っても、娘の好きな唐揚げとクリームシチューを作り、夫のためにいつもよりも少し高い赤ワインを開け、食後にクリスマスケーキを食べたというだけのささやかなもの。料理が不得意な私だから、ケーキも手作りではない。けれど、インターネットで注文したケーキの上には、トナカイの形に抜かれたチョコレイトが載っていたし、リヴィングの隅では、夫が娘と飾りつけたツリーが豆電球をぴかぴか点滅させていたし、十分にクリスマスの雰囲気を味わうことができた。
 ケーキの後には、三人並んでソファに座り、ディズニー映画の鑑賞会。肌の浅黒いプリンセスに、時代の変化をしみじみ感じる。コロナが収束したら、ディズニーランドに連れて行って、と娘にせがまれているけれど、一体いつになることだろう。
 エンディングを見届ける前に、夫は寝息を立てていた。こんな時代でも、師走はやはり忙しいらしい。寝顔に疲労がにじんでいる。
 先に休むよう夫を促し、洗い物を済ませると、日付は既に変わっていた。物音を立てぬよう気をつけて娘の部屋に入り、リボンのかかった包みをベッドの枕元に置く。寝返りを打った肩に毛布をかける。小学四年生になるのに、彼女はまだサンタクロースを信じている。

 店の外で雀がさえずっているのが聞こえる。耳を傾けていると、今度は路線バスが通り過ぎて行った。しゃがみ込んだまま、ぼんやりと考える。
「今日も誰も来ないかな」
 その言葉に上書きするように重ねた。
「今年も来ないかな、あのひとは」
 何年前だっけ。指を折って数えてみる。一、二、三。三年前か。
 いまでもよく覚えている。クリスマス・イヴの午後。店の前に現れた彼の姿を。
「店始めたって聞いたから、来てみた」
 最後に会ってから十年以上経っていたのに、すぐにわかった。白髪がまじり、顔の輪郭も少し緩んで、学生時代の彼に比べ、柔和な印象に変わっていた。でも、全然変わっていないとも、同時に感じた。

「ちょっとお店番、頼むわね」
 バイトの女の子に言い残して、彼と一緒に店を出た。
 そう、あの頃は、店を始めたばかりで、私もまだ張り切っていて、バイトをひとり雇ってもいたのだった。
 商店街を駅に向かって五分ほど歩き、彼と私は、広場に面した喫茶店に入った。チェーン店だけど、雰囲気もそれほど悪くない。あいにくテーブル席が埋まっていたので、窓際のカウンター席にちょうどふたつ空きを見つけ、ふたり並んで腰を下ろした。
 向かいの洋菓子店の店先でクリスマスケーキを売っているのが見える。ダウンジャケットに三角帽子。寒いだろうに声を張り上げている。その隣の花屋では、ショーウィンドウを赤いポインセチアが飾っている。シクラメンの鉢を手に、お婆さんが真顔で品定めしている。それほど住人の多い街ではないけれど、それでもイヴのせいか、今日は通りが賑わっている。

「突然来るから驚いた」
 ココアに浮かぶマシュマロをスプーンで沈めながら私は言った。
「私のこと、覚えていると思わなかったから」
 いじけて言うわけじゃない。彼とは大学時代、同じゼミ生で、でも、それだけの関係だったから。
「聞いたんだよ、店のこと、先生から」
「先生とまだ連絡取ってるの?」
「うん、たまにね」
 そうなのか。私なんて地元にいるのに、卒業してそれきりだ。それが普通だと思っていた。
 ふと彼がつぶやいた。
「夢、叶えたんだね」
 驚いて彼の横顔を見た。
「言ってたじゃん。好きな本だけ並べた小さな本屋をやりたいって。そこでコーヒーとかも飲めて、そういう店をやってみたいって」
 急に胸がドキドキして、私はカップの中に視線を落とした。
「夢っていうほどでもないっていうか、古本屋だし、あんなちっちゃい店だし・・・。本もまだ少なくて。これからだとは思ってるんだけど」
 声がうわずって、それが恥ずかしかった。だけど、疎遠になってしまった友人の中に、自分の夢を覚えていた人がいるなんて。そして、その事実が、こんなにも私の心を震わせるなんて――。
「さっきざっと見たけど、なかなかいい本揃えているなって思ったよ」
「そんな・・・あなたのほうがすごいわよ。出版社に入って、編集者になって、東京でバリバリやってるって聞いた」
 彼は、紙鉄砲を鳴らしたみたいに、ハハッ!と一回、声をあげて笑い、それから言った。
「バリバリなんてやってないよ。普通のサラリーマン。俺、編集やってないからさ、本を作ってるわけじゃないんだよ」
「そうなの?」
「うん、営業。だから、本に関係あるかと言われたら関係あるけど、関係ないといえば関係ないね」
「なんか・・・いろいろあるのね」
「だから、そっちのほうがすごいよ、全然ブレてないじゃん」
「うん・・・」
 卒業後、叔父の会社に勤め、そのまま結婚して家庭に入った私は、外の世界をよく知らない。こんな時、どんな相槌がふさわしいのか見当がつかず、私は曖昧な表情を浮かべ、話題を変えることしかできなかった。
「そういえば、どうして今回は戻ってきたの?」
「ちょっと用事があって」
「用事?」
「父親がさ、まだこっちにひとりで残って暮らしてるんだけど、結構年がいってて、東京に呼んで一緒に暮らそうかと思ってさ。その話とか手続きとか」
「ああ・・・。確かにひとりじゃ心配よね」
「本当にヨボヨボしちゃってからっていうのもどうかなと思うし。元気なうちにね」
 この街を離れていく、このひとも。久しぶりにチクリと胸が痛んだ。
 大学を出て、仕事を見つけ、誰もが自分の場所、自分の暮らし、自分の人生を作る。私は地元に残るという選択をした。別にそのことに不満を感じてはいない。夫に娘、小さな夢まで叶えて恵まれていると思う。だけど、この街を離れていく人たちの話を聞くたび、取り残されたような気分になることも否めなかった。

 それから一時間ほど、私たちは互いの近況や築いた家庭のことを報告しあい、もう一度、一緒に私の店に戻ると、彼は本を二冊買って帰って行った。
「じゃあ、また来ます。必ず」
「ぜひ」
 そう言って、手を振って見送った。それ以来、彼は姿を現してはいない。

 LINEのIDくらい聞いておけば良かった、といまは思う。でも、「また来ます」という口ぶりが、本当に近い日を指しているようだったし、「父親の引っ越しの他にも実家の処分どうするかとか、やることがまだいろいろあるから、当分はちょくちょく帰ってくると思うんだ」という言葉からも、こちらから尋ねる必要はないと思った。
 いまどきインターネットで検索したら、たやすく連絡先は見つかるだろう。けれど、それはしていない。なぜなら、メールしたいとか、会いたいとか、そこまでは思っていないから。来てくれたら嬉しい、というのは、それとは違う気持ちなのだ。

 彼の来訪から一年後、中国の一都市で見つかった感染症が日本でも拡がった。陽性患者は日に日に増え、外出自粛が求められたり、解除されたり、マスク着用が常識となって、もう二年が経とうとしている。
 当初は、古書店ならば、それほどの影響は出ないだろうと高をくくっていたけれど、そんなこともなく、客足は遠のき、売り上げもじりじりと下がっていった。バイトの女の子にも辞めてもらったいまでは、店番をしながらひとりで本を読んで過ごす時間のほうが多い。
 賃料が安いから続けられないわけではない。けれど、店をたたもうかと考える日もある。そもそも売り上げが良くないのは、感染症のせいなのか。ひとりでやれることにも限界があるし、私自身に商才がないのかもと思ったりもする。
 だけど、もし、ここで店をたたんでしまったら、私は二度と主婦という立場から抜け出せないだろう。小さなドームみたいな暖かなこの街の、さらに小さなドームみたいな暖かな家庭の中で暮らし、一生を終える。そう思うと、やはりどこか侘しいのだ。
 立ち寄るひとがいなくても望んだ仕事を続け、たまにであっても訪れる見知らぬ誰かと本を媒介に言葉を交す。それは、私にとって窓を開けておくこと、外の世界と繋がろうとすることだ。そして、そんな気持ちを察して、「赤字じゃないなら続けたらいいんだよ」――そう言ってくれる夫を、その言葉を聞く度、心から愛していると思うのだった。

 店内がようやく暖まってきた。そろそろ掃除をしないと。そう考えたとき、ガタガタと引き戸を開ける音がした。
「やってますか」
 その声に顔を上げると、紺色のコートを着た青年が立っていた。近所に住んでいるのだろう、時々、文庫本を買っていく大学生だ。
 私は慌てて立ち上がった。
「やってます、どうぞ」

 彼は迷わず店の隅にある書棚に向かい、浅黄色の表紙の分厚い本を抜き出した。
「バイト代入ったから、これ買いに来たんです」
 カウンターの上に置かれた本のタイトルに、思わず私は声をもらした。
「これ・・・私、この作家で卒論書いたんです」
「店長さん、文学部だったんですか」
「そう。あなたも?」
 口元が覆われていても、ほころんでいるのがわかる。いつも無言でのやりとりだったから、表情を見るのは初めてだ。
「良かったら、珈琲、飲んでいきませんか」
 咄嗟に言葉が口をついて出た。「サービスです」とつけ加えた。
「いいんですか」
 彼の問いに、苦笑いしながら答えた。
「暇なのよ」
 ストーブの上でやかんは口からシュウシュウと湯気を吹き出している。

 三つしかないテーブルのひとつに向かい合って座り、名も知らぬ青年と一緒に珈琲を飲んだ。
 好きな作家や英米文学からから始まって、話は学生生活に及び、晴れて大学に入学したものの、一年目のほとんどがオンライン授業だったこと、貸付奨学金と家庭教師のバイトで何とかやりくりしていること、年上の恋人と遠距離恋愛をしていること、彼は気さくに話してくれた。
 私はと言えば、さして面白い話題もないので、この古本屋を始めたいきさつを、思い出すままつらつらと話した。そう、開店した年に現れた友人のことも。なぜ、青年にそこまで気を許したのか、自分でもわからない。退屈しのぎ。それとも、私も少しひと恋しくなっていたのだろうか。
 彼が私に尋ねた。
「そのひとのこと、好きなんですか」
 好奇心に満ちた瞳とは対照的に、私はカップを手に目を伏している。
「別に好きとかそういうんじゃなくて。遠い街に、生活の外側に、自分と約束をしたひとが存在しているって考えるだけで、なんとなく楽しいの。だから、約束が守られても守られなくても、どっちでもいいの。それにね、東京とかね、全然私には無関係な街が、そういうひとがいることで、ちょっとだけ関係のある街になる。天気予報を見ても、例えば、東京でコロナの陽性患者が増えました、減りましたっていうニュースなんか見ても、自分に関係があるように思える。一カ所分、世界が広がった気がするの」
 彼は、相槌を打つことなく、じっと私の話を聞いていた。
「若いあなたにはわからないかもしれないけど」
 そう言って珈琲を口に含み、顔を上げると、頬杖をついた彼が口を開いた。
「わかる、ような。わからない、ような」

 結局、珈琲を二杯、そして本を三冊買い、青年は帰って行った。
 見送る私に、
「また来ます。必ず」
と言って笑った。
「またぜひ、近いうちに」
 私もそう言って笑った。

 ひとりになると、店の中がしんとしていることに気がついた。
 ノートPCを立ち上げ、お気に入りのポッドキャストを再生すると、ひどくのんびりしたクリスマスソングが流れ出した。聴き覚えがある曲だった。確かあの喫茶店でかかっていた。いまよりも、もう少し無邪気に浮かれていたあの日の街。あの日の私。
 残されたふたつのカップを小さな流しで洗う。
 また来ます、必ず――。
 パンデミックが収まる頃、その約束は果たされるだろうか。
 彼が現れないのは、コロナのせいかもしれないし、全く関係ないかもしれない。お店が繁盛しないのだってそう。コロナのせいかもしれないし、全く関係ないかもしれない。私にはわからない。
 四十になり、彼も私も叶えたはずの夢は、描いたものとはなんだか違う。それでもそれぞれが育てた夢で、さえないけれど大事にしたいと思う現実で、先行きが見えないと繰り返されるこの二年、心細さを抱えながらも私が毎日店を開け続けることができたのは、「また来ます、必ず」という言葉を信じたからだ。約束がある、そのことが小さな光となって私を支えた。

 洗ったカップを拭き、布巾の上に伏せて置く。
 今年は、サンタクロースが、もうひとり、届けてくれたのかもしれない。
 小さな音で流れるクリスマスソングを聞きながら、私は心の中で思い返した。何度も。何度も。
「また来ます、必ず」――その言葉を。

「クリスマス -white falcon & blue christmas-」
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