私のかけら 39  長谷部千彩

――これはかけら。季節のかけら。東京のかけら。私のかけら。

8月×日 勝利をわれらに

コミックブック『MARCH 3 セルマ 勝利をわれらに』読了。第三巻(最終巻)の内容は、1963年のアラバマ州バーミングハムの教会爆破事件から、投票権の獲得を目指したデモ・セルマの大行進(このデモは、無抵抗な参加者に対し、州兵などが暴力を振るい、多数の犠牲者が出たため、血の日曜日事件とも呼ばれている)、それを受けて1965年に投票権法が成立されるまで。
投票権法に関しては、コミックを読んで初めて知った。簡単にまとめると、アメリカでは、日本と違って、選挙で投票するには、先に有権者登録を行う必要がある。しかし、南部諸州では、黒人が有権者登録をしようとすると、様々な妨害が加えられ、実質的には黒人の選挙権は剥奪されているも同然の状態だった。1965年の投票権法は、その不当な妨害を阻止し、黒人も制限なく有権者登録ができるよう、もしも、妨害があったときは、連邦政府が介入し、州に代わって有権者登録を行うとしたもの(・・・ということだと思う、たぶん)。

『MARCH』、第三巻に入って、投票権の獲得を目指す段階へと運動が進み、白人優位主義者からの圧力はますます激しくなり、また、運動の拡大とともに、活動団体間、及び、活動団体内部での軋轢も生まれ(黒人差別撤廃を目指す団体はいくつかあった。主人公のジョン・ルイスが所属していたのはSNCC=学生非暴力調整委員会)、あまりの道のりの険しさに、二、三ページ読んでは、本を閉じて一息、また二、三ページ読んでは、本を閉じて一息。ページをめりながら、とてつもなく大きな岩をじりじり動かしていく感じ、重い扉を一枚一枚、押し開いていくかのような感覚を味わう。デモ参加者は非暴力を貫くものの、警察(保安隊)からは容赦ない暴行、多数の怪我人が毎回出て(死者も出ている)、「投票権」と書くとたった三文字だけど、血まみれになってつかんだ権利なんだなあ、と感じ入る。

個人的に、お!と思ったのは、1963年10月7日のフリーダム・デイというデモに、ジェイムズ・ボールドウィンが参加していたこと。描かれた顔が全然似ていなくて、ちょっと笑った。それから、セルマの大行進のときには、夜、デモ隊がテントを張った場所でコンサートが行われたらしく、ハリー・べラフォンテ、ニーナ・シモン、トニー・ベネット、サミー・デイヴィス・ジュニア、レナード・バーンスタイン、ジョーン・バエズ、ピーター・ポール&マリーが参加した、とのこと。サミー・デイヴィス・ジュニアの『ミスター・ワンダフル―サミー・デイヴィス・ジュニア自伝』、途中まで読んで投げ出したままにしているけど、ちゃんと最後まで読めば、このコンサートのことも書かれているのかな、と考えたり。

読み終えるのには一日かかった。読み通すのに気力も要り、最後は、こちらもへとへとなったけど、へとへとになることは大事なことなのかも。簡単に読み飛ばせたら、どれだけ困難なことを成し遂げたのか、伝わってこないから。公民権運動がどのように展開されていったのかよくわかったし、活字では想像しきれない部分まで、生々しい描写でカバーされているのはコミックならでは。大変な力作だと思う。読んで良かった。

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8月×日 Revolution Will Not Be Televised

昨夜、『MARCH 3 セルマ 勝利をわれらに』を読んだ後、リラックスをしたくて、でも、こんなに真剣な話の後に、アニメを観るのも何だかなあ、と思っていたところ、急に、音楽を聴きたい、しかも、はっきりと、ギル・スコット=ヘロンを聴きたい、という気持ちが沸き上がってきた。頭の中で流れたのは、“The Bottle”、それから、“Revolution Will Not Be Televised(革命はテレビ放送されない)” 、そして、“Lady Day and John Coltrane”。もちろん、すぐにそれらの曲をかけた。公民権運動から2018年に気分を戻す途中に聴く音楽としては、うってつけだと思った(社会的な問題に目を向けて歌っていたひとだから)。

久しぶりに聴くギル・スコット=ヘロンは、相変わらず、かっこよかった。そして、私は、ああ、私にはまだ音楽を楽しむ気持ちが残っているんだなあ、と思い、なんだかじんわり嬉しくなった。というのも、この一年ぐらい、音楽をあまり聴かなくなっていて、私はもう音楽を好きじゃないのだろうか、と寂しく感じていたから。

眠るまでの数時間、ギル・スコット=ヘロンの曲をあれこれ聴きながら過ごした。この頃、好きなものとの再会が続いている。

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8月×日 One

ミュージカル『コーラスライン』来日公演。シアターオーブにて。映画版は、昔、観ているけれど(30年前!)、舞台版は初めて。

『コーラスライン』と言えば、金色の揃いの衣装に身を包み、「One」を歌い踊るフィナーレが有名。映画版の、鏡を使いながら、どんどんダンサーを増やしていく演出が好きだったので(映画ならではの演出だと思う)、舞台ではどのようになっているのだろう、と楽しみにしていたのだけれど、舞台版では人数は増えず。でも、そこは、生のダンスの魅力、眩しいほどにキラキラしていてすっかり感動してしまった。

公演が終わって、一緒に観に行ったKさんに、「来て良かった!やっぱり「One」は名曲だね!」と話す。「そうだね」とKさんも同意。でも、私の言葉の裏には、「One」は突出していい曲だね!という意味もある。
『コーラスライン』は、ミュージカルスターではなく、その後ろで踊るアンサンブルダンサーたちの青春群像劇。家庭環境とか、トラウマとか、コンプレックスとか、性的指向の問題とか、間にユーモラスな曲も少し挟まれるけれど、正直、暗めの告白が、劇中、続く(そこから、ゴージャスなフィナーレへと一転するところが見せ場なのだけれど)。映画だと一時間半だからそれ程気にならなかったけれど、舞台は2時間あって鬱々としたタメがやや長く感じられ、途中、まだ悩みの話が続くのか、とダレてくることも。
満足感もあったし、とても楽しかったけど、とどのつまり、私は、『コーラスライン』に、ではなく、「One」のフィナーレに感動しているだけかもしれない。いや、本当に観に行って良かったと思っているのだけれども。

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8月×日 中のひと

本を持ってベッドに入ったものの、アニメ『ルパン三世 PART5』の今週放映分を観ていなかったことを思い出し、読書は止めて、そちらを視聴。今シリーズの『ルパン三世』、キャラクターデザインが好きになれないし、ルパンが全然泥棒しないし、アクションシーンも少ないし、峰不二子が古女房みたいだし、時代設定が現代だからインターネットを使った話が多く、そのせいでなんだかちまちました印象を受けるし、私としてはいまいちなのだけれど、それでもなんとなく観続けている(オープニング曲のアレンジ、エンディング曲もなんだかな、という感じ)。観始めると、律儀に最後まで観てしまうのは性格です。

今週は、次元大介が狙撃手と対決するストーリー。PART5の中では一番面白いような気がした―というか、面白いのに、次元大介の声がおじいちゃんで、それが気になって気になって話に集中できなかった・・・。小林清志さん(次元大介の声のひと)、85歳で現役ですごいと思うけど、毎回、次元大介が喋る度に緑茶でも出されたような気分になってしまって困る。大体、あの喋り方で、速撃ちのガンマンって、説得力ない・・・。みんな何とも思わないのかな。不思議。

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8月×日 あらかじめ決まっていること

昨夜、夜更かししてしまったので、昼頃、目覚める。
食事の後、雑誌『MONKEY vol.15 アメリカ短篇小説の黄金時代』を広げる。お目当ては、この本に収められている、ジェイムズ・ボールドウィンの短編小説『あらかじめ決まっていること(Previous Condition)』。未読の作品だったので、ワクワクしながら読み始める。

主な登場人物は、黒人の男、ユダヤ人の男、アイリッシュの女の三人。
一回目は、味わうように、少しずつ読み進め、読み終えたところで、もう一度、今度は頭から、一気に読み通す。ああ、やっぱりボールドウィンっていいな、たまらないな、って思った。改めて感じる。私、このひとの書くものが大好きだ。

ボールドウィンの小説のどこがいいって、淡々と始まった物語が、印象的な場面を散りばめながら、段々、加速をつけていき、終わりに近づくにつれ、最後の一行に向かってギューッと絞り込まれていくところ。辿り着いた場所ですっと差し出される一文。心に残る余韻。私が思っている小説を読む楽しさってこういうことだよ!と声をあげそうになる。苛立ち、怒り、諦め、悲しみ、寂しさ、違和感、安らぎ、やりきれなさ、それでも求めてしまう気持ち・・・ないまぜになった名前のつけられない感情を、主人公とともに味わう贅沢。

それから、この小説、最後のほうに、エラ・フィッツジェラルドの『カウカウ・ブギ(Cow Cow Boogie )』が流れるシーンがある。その曲の選び方にもぐっと来た。こういう状況で、エラの声の『カウカウ・ブギ』が流れて、そこにこの会話が重なって・・・と、頭の中でエラのブギを再生しながら読むと、ぶわっとイメージが立体的になって、ひりひりとしたせつなさがこみあげてくる。こういうとき、音楽を知っていて良かった、と思う(知らなくても、いまはネットで検索してすぐ聴くことができるけど)。そして、私にも理解できる記号を用いて語りかけてくれるその小説を、とても身近に感じる。まるで、1948年に書かれた作品が、時空を飛び越えて、私のもとに来てくれたみたい。

小説を読んだ後、リアリティについて少し考えた。すこし前に、窪美澄さんの小説『じっと手を見る』を読んだ。地方都市に住む、休みの日にはショッピングモールに行くのが楽しみという主人公が出てくる話だった。ちゃんと最後まで読んだけど、私には遠い世界のことのように感じられ、気持ちを寄せることができなかった。でも、『あらかじめ決まっていること』は、探せば自分の心のどこかにも似た感情が埋まっているように思える。私はアメリカ人でも黒人でもない。日本で育って日本で暮らす日本人。なのに、窪美澄さんの小説よりも、ボールドウィンの小説のほうに親しみを覚えるのはなぜだろう。リアリティを感じる作品の構成要素って、一体、何なのだろう。

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