第三回 雨上がりのチャイニーズ・タウン 

 雨の日曜日、パリ郊外に住む友人夫妻の家を訪れた。目的は携帯を取りに行くため。前夜に夕食に招かれたが、夫人の手料理をつまみにワインが進み、すっかり酔って携帯を置き忘れたのだ。12時の約束で伺い、すぐに帰るつもりだったが、誘われるままお茶をいただいていたら、1時間が経っていた。朝から降り続く雨は、まだ止んでいない。最寄り駅までは徒歩15分程度。駅は7番線の南の終点で、駅まで続く大通り沿いは、1960年代に建てられたフランスで近代建築(Architecture moderne)と呼ばれる高層住宅が立ち並んでいる。駅に近づくと三角形を重ねたような建物と、四角くてのっぺりした、背の高い、むき出しのコンクリートの建物が見える。手前の三角はレ・ゼトワールという商業施設と住宅、四角い建物はシテ・スピノザという団地で、女性建築家ルネ・ガイユステがル・コルビジェのユニテ・ダビタシオンを参考に設計したものだ。当時は最新鋭の施設だったであろうが、商店街はシャッターを閉めた店がほとんどでうらぶれた印象だ。高い建物が多いせいだろう、吹く風が強く、傘をさしていたのに上着もボトムも濡れて肌寒い。電車に乗ると、ひどくお腹が減っているのに気がついた。

 7番線を何駅か北上すると、ベトナム人やカンボジア人の移民が集まる中華街がある。メトロをポルト・ド・イヴリー駅で下車すると、雨はすっかり上がっていた。早足で蒸し鶏が有名な「Mirama(ミラマ)」に向かう。しかし店に着くとランチ営業は終わっており、暗い店内でスタッフが掃除をしていた。がっかりしながら、次の行き先を考える。そうだ、蒸し鶏なら、近くにもう1軒あったっけ、と思い出した。
 「Fleur de mai(フルール・ド・メ)」は大型中華スーパー「タン・フレール」のはす向かいにある小さな食堂だ。狭い間口から中を覗くと、30席ほどの店内は満席。美味しそうな料理が乗るテーブルを囲み、アジア系の人々が賑やかに食事をしている。席が空くのは大分先になりそうだ。着席するのは諦めて、テイクアウトしよう。看板メニューの蒸し鶏のサイズは4分の1羽と2分の1羽から選べるが、とにかくお腹が減っていたので、大きい方を選ぶ。支払いをすると番号札を渡され、店の外で待つように、とレジのマダムに言われた。

 この店は15年以上前、13区に住んでいた日本人のキャビアアテンダントから教えてもらった。彼女の夫はフランス人で、前妻との間に小学生の息子が2人いた。フランスは共同親権で、離婚後、子供は1週間ごとにパパとママの家を行き来するものだ、と彼女が教えてくれた。彼女は私より年下で、確か20代後半だった。結婚と同時に、2人の子供の世話をするってどんな感じなんだろう、と不思議に思ったものだ。夫の仕事の都合で、彼女がアメリカに引っ越してから、連絡は途絶えたが、今も元気にしているだろうか。
 そんなことをぼんやり考えていたら、番号を呼ばれ、ビニール袋を渡された。ずっしり重い。アルミ容器の蓋をそっと開けると、容器いっぱいに熱々の蒸し鶏が入っている。紹興酒とネギ、八角の香りがふわりと漂う。冷める前に食べなくては、と急いで駅に向かった。メトロに乗る前に、ワインショップに寄って軽めの赤ワインも購入。電車の座席に座って鶏の袋を膝に乗せる。雨に濡れ、空腹で冷え切った体にじわりと熱が伝わり、少し幸せな気持ちになった。

 帰宅して大急ぎで支度する。ワインを開け、鳥モチーフのアンティークの皿に蒸し鶏を盛り、一緒に渡された自家製のタレを小皿に移す。冷蔵庫にあったパクチーは刻んで薬味に。メキシコで買った赤と青のランチョンマットをテーブルに敷き、皿とワインを並べたら準備完了。グラスにワインを注ぎ、味見をする。今夜のワインはブルゴーニュのルイ・ラトゥール。ここは老舗の作り手で、高級な印象があるけれど、このマルサネの赤は15ユーロ程度で買えるお手頃なもの。苺のようにフルーティな香りと味で、すいすいと飲めてしまう。すでに包丁が入れてある蒸し鶏を一切れとり、パクチーをたっぷり乗せて口に運ぶ。まだ暖かさを残す肉は柔らかながら弾力があり、噛み締めるとほのかに酒と生姜の香りがした。タレには塩と胡麻油が効き、これがまた美味しい。実は名店と言われる他店の蒸し鶏を食べても、骨が多く淡白な印象で、少し物足りなさを感じていた。長らく行っていなかったが、ここの蒸し鶏は以前と変わらぬ美味しさだ。無心で食べ、飲み進むうちに体が温まり、ふわりと楽しい気分になった。

 全部は食べ切れなかったので、半分は明日の昼ご飯に回すことにした。ご飯に乗せて丼にするか、中華麺で塩ラーメンにするか。米の麺でフォー風にしようか。バゲットに辛子をたっぷり塗って、塩揉みしたキュウリのスライスを挟んで、サンドイッチにしても美味しいだろう。そのままでも、アレンジしても楽しめる蒸し鶏。しばらくブームが続きそうだ。

 (イラスト/題字 山本アマネ)

木戸美由紀 KIDO MIYUKI ライター/コーディネイター  www.instagram.com/kidoppifr/