眠れない/ 猪野 秀史 vol.6

photo 川上尚見

僕の音楽武者修行・1
 クラシック・ピアノをやっていたことや、中学時代に吹奏楽部で青春(?)していた頃のことは、自分の音楽人生を形成する土台となる出来事だが、これまで語る機会がなかった。そんな話には誰も興味を示さないということかもしれないが、今回は記憶の整理も兼ねて書いてみようと思う。

 ピアノを始めたきっかけは今でも鮮明に覚えている。
 僕は五才。母が近所の駄菓子屋に行こうと言うのでスキップしながら後をついて行った。母はなぜか駄菓子屋の前を通り過ぎたが、とりあえずそのまま一緒に歩いて行った。少し坂を登った先に大正モダンな飾り窓が印象的な屋敷があり、その家のチャイムを鳴らす母。家の中から優しそうなお婆さんが猫を抱いて現れた。それが最初のピアノの先生との出会いだった。
 当時、ピアノ教室に通う子供は全員女子というような時代。物心ついた頃の自分にとって、男子禁制のようなその雰囲気は居心地の良いものではなかった。何度か辞めようと思ったが、結果的に高3まで続けた。なぜそんなに長く続けられたのか。ひとつ理由を挙げるとすれば、兄の本棚にあった小澤征爾さんの『僕の音楽武者修行』という本を読んで感動し、クラシックの道を進もうと決意したからだ。
 練習は辛かったが「継続は力」とはよく言ったもので、ひとつずつ課題をクリアしていく。音符記号や調などを理解するための楽典という音楽理論、先生が弾くピアノの単音と和音を目を閉じて聴き、答える聴音など。そういう基礎練習の積み重ねの中で僅かに上達する。そしてそれと共に先生が変えられていくことになる。

 中学生になった頃、三人目の先生に師事。佐藤先生という美人講師。その美貌に相応しく厳格な先生だった。ミスタッチすると手を叩かれる。ショパンの「ノクターン」のような静かで美しい曲中 に叩かれると、鍵盤の不協和音がゴ~ンと鳴り響く。先生は真剣な表情。そしてまたゴ~ン。ある日、「ドリフのコントみたいですね」って、つい余計なことを言ってしまった。これはヤバイなと覚 悟したが、先生は「君は真面目にやればすごく伸びる子なんだけどね」と、お釈迦さまのような達観した面持ちで一言。叱られることを確信していただけに困惑し、しどろもどろになってしまった。

 中学では吹奏楽部に入部。県大会や全国大会を目指す伝統ある部だった。先輩から「背が高い!」という理由でテューバという金管楽器が与えられた。実は五歳上の兄も、その中学でテューバを専攻していた。オーケストラの低音を担う縁の下の力持ち的存在で、花形のトランペットやサキソフォンと違い、立ち上がってソロを決めるようなことがない、地味な楽器だったが楽しかった。
  その頃、フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルという金管楽器の室内アンサンブルのレ コードをいくつか愛聴していた。そのアンサンブルでも活躍をしていたイギリスのテューバ奏者ジョン・フレッチャーの『魔法のテューバ』というソロ・アルバムを兄に教えてもらった。テューバでひとり多重録音したチャイコフスキーの「くるみ割り人形」やエルガーの「朝の歌」などが、神技のような技巧と表現力で演奏され、地味なテューバを主役級に輝かせている作品だった。何よりもテューバの持つ音色の素晴らしさと可能性に気づかされた。

 そして自分が副部長だったということもあり、顧問の先生が忙しい時は指揮棒を渡され、コンクールに向けての全体練習を取りまとめた。シベリウスの「交響詩フィンランディア」、ショスタコーヴィッチの「交響曲第5「革命」」、ワーグナーの「ローエングリン」といった曲が特に記憶に焼きついている。これらの曲で指揮棒を振る喜びに格別な何かを感じ、僕はクラシックの沼に浸かっていった。指揮棒というものは不思議なもので、ひと振りで時空が生まれ、演者と観客がひとつになる。持つ人によってはただの棒。
 音が目に見え肌に感じるように思えるまで、部活は毎日夜まで続いた。クラシックに限らず映画音楽やポップス、炎天下の運動場でのマーチング練習など、とにかく忙しく濃密。テューバを担ぎ、社会人の市民オーケストラにも何度か参加した。顧問の先生も参加している大人だけの楽団で、子供扱いされない厳しい現場だったが、休憩の時もスコアを広げ、作曲者の解釈を話し合ったり、演奏上の重要なポイントを実際に演奏して試したり、貴重な経験ばかりだった。
 当時の顧問の先生が、口癖のように「音楽というのは生活や自然の音、祈りや願いをあらわすためのもので神聖なものだ」といつも話されていたのを覚えている。そしてもうひとつ、今でも鮮明に記憶に残っている言葉がある。音楽室の真ん中にある指揮台後ろの壁、全員が見える高い位置に、先代の顧問が書き残した一筆書きが額装され、飾られていた。決して上手な字ではなかったが、力強く「一音一心」と書かれていた。

 土々呂(ととろ)中学吹奏楽部に在籍中、金管五重奏の県大会で金賞を獲得した。審査員たちにベタベタに褒められ、すっかり調子に乗った僕は、その勢いで東京の音楽高校への進学を希望した。親に相談すると、「調子に乗るんじゃない!」と猛反対を喰らい、リビングに父の哄笑が響いた。古来より日本には「調子に乗ったら後から痛い目に遭う」的な教えがあるけれど、自分のリズムを掴んで自己肯定感が高まっている時にこそ、自分を信じ勝負に出なくてどうする?と思ったが、中学生にとって親の意志は絶対。最終手段として家出も考えたが、結局は普通科の高校へ進学した。
 高校から、またピアノの先生が変わった。音大受験のためピアノとは別に声楽も薦められ、一年間イタリア歌曲を中心に声楽を勉強。高校生活も楽しく、順調すぎるくらいに進んでいたが、父の仕事の関係で高2から転校することになった。
 転校して最初の一年は新しい環境に馴染めず、成績も下降の一途。大好きだった祖母が他界したり、毎日が暗闇の中を歩いている気分だった。その頃はポストパンクばかり聴いていた気がする。
 高3に進級する春休み、友人の誘いで≪TEENS’ MUSIC FESTIVAL≫というYAMAHAが主催していたコンテストに、堂々とRolandのキーボードを持ち込み、出場した。バンドは落選したが、個人ではベスト・キーボーディスト賞というものをいただいた。
 次の日いつものように登校すると、大勢の生徒に囲まれ褒めちぎられるという夢のような景色が広がっていた。急に友達も増え、環境も一変した。
 そして、「バンドマンになろう」、単細胞な僕はそう決めたのだった。

猪野秀史 INO HIDEFUMI 鍵盤奏者 / シンガーソングライター  www.innocentrecord.net