今年もクレマチスの花は咲き、そして散った。早めに剪定すれば、二番花をつけることもあるので、数日前、支柱に絡む蔓をほどいて切り戻した。
私が育てているのは、紫色の花をつけるアフロ・ボーイと、白い花をつける鉄線(テッセン)の二種。アフロ・ボーイは去年購入した株だが、鉄線のほうは育て始めて八年が経つ。時々肥料を与え、伸びすぎた蔓を切るだけで、特別手をかけてもいないのに、毎年元気に花を咲かせる。
“鉄線”という名は、蔓が針金のように細いことからついたと聞く。確かに名の通り、蔓は細く、そのため風に吹かれると花がフワフワと揺れる。とりわけ夕暮れ時、薄闇の中を白い花が浮かび、漂うように揺れている様は、幻想的で実に美しい。仕事の手を止め、見入ってしまうほどだ。
ところが勝手なもので、花のない時期にはクレマチスのことなど私は気にも留めていないのだ。開花している他の鉢植え、もしくは芽を出したばかりのものや、うまく育っていないもの、手のかかるものに気を取られている。つまり、椿が散り、桜が散り、春も半ばに差し掛かり、クレマチスの枝の先に小さな蕾が目立ってきた頃、その存在はようやく私の意識に上る。「そんな季節か」と独りごちる。それから、もうひとつの意味でも思うのだ。そうか、そんな季節なのか、と。
この鉄線は、亡くなった知人の家へお線香をあげに行った帰り、その家の向かいの園芸店で買った。それ以前にモンタナ系のピンクのクレマチスに挑戦して枯らしたことがあったので、もうクレマチスには手を出さないと決めていたのに、ヒトデのように開いた白い花びら(正しくは萼)と鮮やかな紫の蕊(しべ)の彩りに一目惚れした私は、大きな鉢を抱えて家路についたのだった。毎年この株に花が咲いたら、亡くなった知人のことを思い出すだろうと思った。お盆とも違う、命日とも違う、知人を思い出すきっかけになるんじゃないかと思った。
けれど、いま、知人を囲んでいた人たちともすっかり疎遠になった私は、鉄線の白い花が咲いても知人の名が出てこない。尋ねた家の様子は思い出せる。向かいの花屋もまだあるはず。なのに、名前はおろか、知人の顔までも記憶は奥底に沈み、眉間に皺を寄せ考え込んだ挙げ句、引きずり出すようにしてようやく膝を打つ。――あ、Hさん!
薄情な女と言われるだろうか。でも、実際は、それぐらいのつきあい、それぐらい距離のあるつきあいだったのだ。亡くなった時には驚きで覆われていたけれど、八年という歳月がその事実を露わにした、それだけのことだ。
その代わり、この鉄線が咲く時、私は別のひとを思い出す。
あの日、お線香をあげに行ったのは、旧い女友達とグラフィックデザイナーのMさん。三人、通り沿いのカフェで落ち合い、そこから一緒に知人の家へと向かった。平日の晴れた午後だった。カフェのドアを押し開けた時、先に着いていたMさんが、こちらに気づいてニコッと笑ったことを覚えている。
そのMさんはもういない。去年の春、突然、消えるように逝ってしまった。コロナ禍の最中のことだったので、私はお葬式にも行けなかったし、いまだにお線香をあげに行ってもいない。
訃報を受け、涙に暮れながら、私は、あの日鉄線を買ったように、Mさんのためにも花を買って育てたいと思った。Mさんのことを忘れたくなかった。
私のよき理解者だったMさん。私が書く文章、私が撮る写真を好きだと言ってくれたMさん。強い個性の人々に囲まれ、押しつぶされそうになっている私に、いつも暖かい言葉をかけてくれた。「千彩ちゃんは絶対に写真展をやるべきだよ」と言ってくれたのもMさんだ。
なのに、Mさんのための花を私は買えなかった。ショックと嘆きで、花など選ぶ気持ちになれなかった。知人のための鉢植えは買えた。Mさんのためには何も買えなかった。それは、紛れもなく、それぞれとの距離、私の知人に対する依存度とMさんに対する依存度の違いだ。
翌々日、塞ぎ込んでばかりいては、と思い、日比谷公園にある図書文化館へ、母と小村雪岱展を観に行った。私の体は泣きすぎてふらふらしていて、「信じられない」――その言葉だけが頭の中をぐるぐると廻り、まるで夢の中を歩いているみたいだった。
展示を観終え、建物を出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。日比谷公園には、木蓮の樹が並び、見上げる夜空に枝を伸ばし、街灯の光を受けてオレンジ色に染まった白い花をこぼれんばかりに咲かせていた。春と言えどもまだ冷たい三月の風に吹かれながら、夜に咲く白木蓮が、私にとってMさんの死の象徴になるのだろう――そう思った。
けれど、一年が経ち、木蓮の季節を過ぎ、ベランダに置いた鉄線の鉢に水を遣りながら、私は思い出している。Mさんのことを。そして来年も、再来年も鉄線の花が咲く時、きっと思い出す。この鉢植えを買った日、一緒にいたMさんのことを。花を買うことすらできなかった深い哀しみ、日比谷公園の白木蓮とともに。
全てのひとのことを記憶に残すことなどできはしない。それは残酷な現実だ。遠景へと流されていったひとがいる。名前が、顔が、月日とともに薄れていく。けれど、引き換えに鉄線の花が守るのだ。私の心の中に留めてくれる。Mさんというひとりの友人の存在を。午後のカフェ、あの日見た優しい笑顔を。