第4回 『Trav'lin' Light / Billie Holiday』

 就職活動を投げ出して美術大学を卒業したが、絵の仕事だけでは毎月暮らしていけるだけのお金は稼げない。すぐにアルバイトを探さなくてはならなかった。
 真っ先に電話をかけた場所は、新宿にあるジャズ喫茶DUGだった。学生のとき『新宿DIGDUG物語 中平穂積読本』を読み、憧れていたからだ。しかし「現在スタッフの募集はしていません」と言われ断念。次に、一度は働いてみたかった書店の面接を受けたが、あっさりと不合格。街をとぼとぼ歩き、偶然入ったジャズ喫茶でアルバイト募集の貼紙を見つけ、その日のうちに採用になった。
 シフトが重なることの多かったSさんは、開口一番「どんな音楽を聴くの?」と尋ねてきた。好きな音楽や映画について聞かれると、いつも口ごもってしまう。「Sさんはどうなんですか?」と返すと、彼女は斜め上を見て腕を組んでから「B’zとか好きだね」と言った。
 Sさんは、お客さんが来ない時間帯になると、ここぞとばかりに大音量でB’zを流した。「ウルトラソウルッ」の瞬間にお客さんが入ってきたらどうしようと内心そわそわしていたが、その状況を楽しんでもいた。お店ではフリージャズはあまりかけないように言われていたけれど、私もお客さんがいない隙に、音量を上げてアルバート・アイラーを流していた。Sさんも得意げな笑みを浮かべながら、一緒になって聴いてくれた。
 JAZZ喫茶とはいっても、レコードをかけるわけでもなく、店長はBGMにそれほど拘りがなかったから、ほどなくして私は好きなCDを持参して流すようになった。ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、ファッツ・ウォーラー、デューク・エリントン、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス。午前中のお客も疎らな店内でそれらの音楽を聴くのは、このうえなく心地良かった。
 お昼時になると、近くの会社やデパートで働く人々で店内が賑わった。軽いお喋りと、フォークと食器が重なる音に音楽が掻き消されるまでの時間、私はニューオリンズかハーレムの古びたカフェで働くウェイトレスにでもなったような気分で、夢見心地だった。

 そうこうしているうちに大学を卒業して一年半が過ぎ、夏がきた頃に初めての個展を開いた。2010年の7月。展示のタイトルは、「私の心を奪った彼は去ったけれど、私はそよ風のように自由。彼が戻ってくるまで身軽に生きるの」と歌うビリー・ホリデイを思い浮かべながら『Trav’lin’ Light』と名付けた。 他の誰かを待つのではなく、自分自身に少しの希望を抱いて。