美術館への行きかた。

第十回 美術館とギャラリーは違うもの

アメリカの多くの老舗ギャラリーが閉鎖に追い込まれているそうだ。ネットの隆盛やアートフェアと呼ばれる、要は合同展示即売会のようなものの数の多さにより、わざわざギャラリーまで足を運ぶ理由がなくなっているらしい。

これは美術業界に関わらず、多くの専門店で起きていることで、AMAZONの登場により駅前の小さな書店の多くは消えてなくなった。ギャラリーでも、生き残っているものといえば、メガギャラリーと呼ばれる巨大な資本に支えられている一部のみである。

多くのメガギャラリーはアジアへの出店が続いている。これはつまりはビジネス上の成功を目指しているものであり、ここが美術館とは異なるところである。まぁ雑な例えをするのであれば、動物園とペットショップの違い。目的が研究や保存なのか、それとも販売なのか、ということだ。

極端な商業主義が中心的な思考になるのは、いかにもアメリカらしいのだが、これは美術そのものにも多分に影響を与えてきている。戦略的に自身の市場価格をコントロールする作家なども現れ、企業広告やらファッションブランドなどとのコラボレーションも多い。もはや彼らはキレキレのマーケターのようでもある。

ギャラリーは販売することが目的であり、すでに高額のつく作家の作品を転売することもあれば、若手作家を育成し価値を高めていくこともある。しかし、30年遡ると日本にはこのビジネスモデルとはまるで異なるギャラリーが中心だった時代がある。

日本におけるギャラリーの中心地といえば銀座だ。そしてその多くが上記したようなものではなく、「貸画廊」と呼ばれるものだった。いわば美術に特化したイベントスペースのようなものだ。日割りで幾らという契約のもと、一週間程度の期間を出品作家側が画廊からスペースを借り入れるのだ。そこに自身の作品を展示、販売をするというモデルである訳で、画廊側にリスクはほとんどない。そして美術家=お金に困っているというのが少し上の世代には社会通念のようにあり、それはこのビジネスモデルから来ているところもある。ネットのない時代、売れる確証のない作品を売るのに、場所代を払っていたのだ。

そのギャラリーの仕組みを逆手に取ったのがアーティスト川俣正(1953—)だった。貸画廊で一生懸命に作品展示をする若手作家を横目に(していたかどうかは僕の想像によるところ)、彼は画廊付近で入手した廃材等を用いて、画廊の空間の内外を穿つような構造物を組み立てた。会期が終わるとまた別の場所へ赴き現地で手配した廃材で同様のインスタレーションを組み立てるということを、速射砲のように頻繁に行っていたという。それはさもセンセーショナルだったことだろうと思う。

画廊=タブローや彫刻を展示する場所という先入観が今よりも強かった時代に、その仕組みを批判するような作品を展示し、しかもそれは画廊という四角い空間すらもぶち壊していくのだから。安価にでき、現地にあるものでできるので運ぶ手間も少ない。その上、でき上がる作品は実に特異なものである。瞬く間に氏の評価は世界的なものとなり、独自のアプローチを生み出すように変容していくのだが、それはまた別のお話。

今では貸画廊の数も減っていると聞く。日本は世界的に見ればもはや重要なマーケットではないだろうから、多くのメガギャラリーは香港や上海に拠点を拡大している。

日本にもユニークなギャラリーは数多く存在するから、散歩がてら巡ってみるのも楽しい。そして日本におけるチェルシー(ニューヨークの地名・多くの最新ギャラリーが集まる)は間違いなく某倉庫企業率いる天王洲アイルなのだろう。某倉庫企業はワインセラーの提供したり、街づくりを展開したり、非常に勢いを感じる。

ワインにアートに…。いかにもマネーゲームの匂いがしなくもない。

天王洲アイルには今やたくさんのギャラリーがあり、壁画も出現して「アートの街」なんだそうだ。(美術手帖ウェブサイトより)

川俣正氏による代官山ヒルサイドテラスで行われたインスタレーション(2017)。作品を知らぬ通りすがりの人たちも、何事かと目をやっていた。ちなみに1984年に行われたものの再現。(アートフロントギャラリーウェブサイトより)