2021年の恋人たち

文・長谷部千彩 写真・林響太朗

 インターフォンを鳴らすと扉が開いた。
「ただいま」
「おかえり」
 一ヶ月半ぶりの部屋は、よその家みたいな匂いがした。彼の脚に白い尾を絡ませる猫は、初めての来客に向けるような目で私を見ている。薄情な子。

 ダイニングテーブルの上には小さなサボテンの鉢がひとつあるだけ。キッチンも片づいている。ソファに等間隔に並べられたクッション。私がいなくても本当はちゃんとやれるひとだったのね。なぜだろう、なんだか少し腹立たしい。
「意外と長かったね」
 銀色のポットを手にコーヒーをドリップしながら彼が言う。その口調は穏やかだけど、椅子に腰掛けた私は、先生に注意を受けている高校生みたいな気分。どう答えたらいいものか、口ごもる。
「すごく良くしてもらって・・・楽しくて」
 それは本当のことだ。スーツケースひとつで転がり込んだ女友達の部屋は居心地が良くて、彼といるのはあんなに苦しかったのに、どうして女同士だとこんなにリラックスできるのだろうと何度も何度も考えた。
 コーヒーの入ったマグカップをふたつ、テーブルに置き、彼が正面に座る。
「元気そうで良かった」
「うん」
 コーヒーは、口に含むと私の好きな角砂糖ひとつの甘さ。
「あのときはびっくりしたよ」
 私も覚えている。たぶん一生忘れない。
「嫌いじゃないの、だけど!」
 そう声をあげて私が泣き出した日のことを。

 最初は新鮮だった。こんな暮らしもいいかも――いや、むしろこんな暮らしがしたかったのかも、とさえ思った。
 四十分も長く眠っていられるようになった。朝のコーヒーもゆっくり飲める。オンラインミーティングにはすぐに慣れた。お日様にあてて干す洗濯物。PCディスプレイからふと目を移すと、そこにはいつも彼がいる。真剣な眼差しでキーボードを叩く姿を、ちょっとだけかっこいいと思った。買い物は、コンビニエンスストアとアマゾンがあるから不便はない。夕方になると一緒に食事の支度をする。通勤のない夜は長く、配信動画サイトの会員になって、ふたりで毎日映画を観た。私たちは赤ワインの味に目覚めた。

 世の中にはつらい想いをしているひとたちがたくさんいるのに、自分たちはなんて贅沢な時間の使い方をしているのだろう。幸せで申し訳ないぐらい。これじゃ、まるで長いヴァカンス――そのときは、そんなことまで考えた。
 だけど、ヴァカンスは終わらなかった。緊急事態宣言が解除され、東京の街が動き出しても、彼も私も在宅で仕事を続けることになったからだ。
 春は終わり、夏が過ぎ、秋が来た。少しずつ少しずつ疲れていった。少しずつ少しずつつらくなっていった。

 もちろん私たちだって対策を講じなかったわけじゃない。私はダイニングテーブルで、彼は通信販売で買った折りたたみのテーブルをベッドルームに持ち込んで、離れて仕事をするようにした。時にはどちらかがノートPCを持ってカフェへ行った。自炊の回数を減らして、デリバリーも使うようにした。一緒に始めたジョギングに、彼はひとりで行くようになり、私は一日中ヘッドフォンをして、音楽を聴きながら仕事をするようになった。
 プロジェクトのトラブルがあったのか、彼がひどくイライラしていることがあって、そのときには部屋の雰囲気がどんよりと澱み、私は息を詰めるようにして一夜を過ごした。そんな彼を見るのは初めてで、以前の生活なら、飲みに行くとか買い物をするとか、きっと彼は気晴らしをしてから帰宅していたのだと思う。
 私も仕事帰りに立ち寄るデパートが恋しかった。女友達と落ち合って向かう映画館が、あんなに苦痛に感じていた通勤電車までもが無性に恋しかった。
 鏡に映るメイクの薄い私の顔はまったくさえない。こんなはずじゃなかった。こんな暮らし、私は望んではいなかった。

 家族との時間が増えて良かったと語るひとがいる。クオリティ・オブ・ライフが上がったと喜ぶひともいる。
 残業続きで溜まる疲労。休日、死んだように眠る彼を、胸を痛めて見ていたのに、恋人同士のはずなのにルームメイトみたいだと物足りなく感じたりもしていたのに、すれ違いの生活こそが微妙なバランスを作り、ふたりの関係を成り立たせていたなんて。
 一年前に戻りたいと思う自分が冷たい人間のように感じられて悲しかった。彼は悪くないのに。私は悪くないのに。縮んだ世界で猫だけが毎日満足そうに眠るのだ。

 集積所にゴミを出しに行くと、見上げた冬の夜空に月はいつもと変わりなく浮かんでいた。少しでいい、ひとりになりたい、いつまで続くのかわからない、ならばせめて――。あまりに強いその願いを叶えるため、私は彼と猫を残して逃げ出した。

「一度、帰って話し合ってみたら」
 そう言ったのは、女友達だ。彼女もいい加減、私に出て行って欲しかったのかもしれない。
「これからどうしようか」と彼が言った。
「どうしようか」と私も言った。
 彼が一回眉間に皺を寄せ、咳払いをした。
「結婚でもしようか」
 声がかすれていた。
 私は恐る恐る尋ねた。
「もう少し広い部屋で?」
「広い部屋で」
「別々の部屋がある部屋?」
「別々の部屋がある部屋」
「危なくないの?こんな時期に引っ越しとか」
「仕方がないよ」
「うん」
 自分に言い聞かせるように彼は言った。
「なんとかなるよ」
 自分に言い聞かせるように、私も心の中で繰り返した。
 なんとかなる・・・。なんとかなる・・・。

 不動産屋に行ったり、部屋を内見をしたり、契約に必要な書類を集めたり、引っ越し荷物をまとめたり、新しい家具を揃えたり、それから住所変更に伴うさまざまな事務手続き。無謀な行動だと思っていた。すべては状況が落ち着いたら。すべては感染リスクが下がってから。いまはまだ何も決めてはいけない、そう思い込んでいた。

 なんとかなる、と彼は言った。
 好きという気持ちだけでは乗り越えられない。
 だけど、なんとかなる、その言葉があれば乗り越えられるかもしれない。
 そう思わなければ進めない。私たちはそんな現実を生きている。
 白いウェディングドレス。ダークブルーのスーツ。ヴァージンロードのその先で指輪を交すとき、彼には何も誓わないで欲しいと思った。
 だって、この一年、起こったことは予想できなかったことばかり。
 だから、何も誓わなくていい。
 その代わり、今日みたいに、なんとかなる、と言って欲しい。
 それは何より私たちを力強く導く言葉。

「勝手なことしてごめんね」と言うと、「もういいよ」と彼が答えた。
 私はカーディガンのポケットに手を入れて、指先に触れたものをつまみ、彼の前に置いた。
「ここに来る前、そこの神社でおみくじひいてきた」
「枝に結んでこなかったんだ」
「うん。あげる。開けて」
 彼は無言で手を伸ばした。
 小さく折りたたんだ白い紙を開く彼の指は長くてきれい。すっかり忘れていたけれど、思い出した。それは私が愛したもののひとつ。
 おみくじの文字を追う彼の口元がほころんだ。
 テーブルの下では、いつのまにか寄ってきた猫が、私の足の上で丸くなった。
 足の甲に感じるぬくもりと重み。
 柔らかい沈黙の中で、私は新しい部屋のことを考えた。
 三つぐらい部屋があるといいなと思った。

 

(2021.1.2)