ジャズ・アルバムの印象。

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The Melody At Night, With You ― 夜のメロディ、貴方とともに。
このロマンティックなフレーズは、1999年に発表された、ピアニスト、キース・ジャレットのソロ・アルバムの題名である。

このアルバムを語るには、まず、当時キースを襲ったアクシデントに触れなければならない。97年初頭に慢性疲労症候群という難病を患ったキースは、一切の演奏活動をストップし、治療生活を余儀なくされた。
当時51歳。現代最高峰のピアニストとしての不動の名声と人気を手にし、アーティストとして充実期を謳歌していたタイミングで、一転、人生最大の苦境に立たされたのだ。ピアノを演奏するなんてもってのほかで、力なく椅子に腰掛け、一日中窓の外をぼんやりと眺めているだけ。ファンのもとに漏れ伝わってくるのは、こうした不安を掻き立てる噂ばかり。復帰を絶望視する声も少なくなかった。

それから2年半後の99年夏、なんの前触れもなく突然届いた新作リリースの報せ。そのマスターテープがドイツから日本に到着する当日、私は居ても立ってもいられず、わざわざFedExの荒川配送所まで荷物を受け取りに向かった。
手続きを済ませ配送所を出るとすぐに封を開ける。マスターテープと一緒に同封されていた、“The Melody At Night, With You”とだけ盤面に印刷された試聴用CDを見つけた。それを持参した携帯CDプレーヤーに入れ、子供たちが賑やかに遊ぶ、夏の盛りの荒川土手を歩きながら聴いた。
イヤホンから流れてきた、「アイ・ラヴズ・ユー、ポーギー」の出だしのピアノの5音。静寂の水面にひろがる波紋のような、そのシングル・ノートたった5音だけで、全身の汗が一気に引いた。それまでは歩き疲れて汗だくだったのに。そして大袈裟でなく、自分の周りの時間が一瞬だけ止まった。あのときのことは、今も鮮明に記憶している。

自宅内のプライベート・スタジオで録音されたこのアルバムは、まさに闘病中のアーティストの姿を記録したものである。ここでのキースはメロディをひたすら丁寧に紡いでいく。そこにかつての超絶的な即興演奏家の面影はない。だが一方で、それまでの作品にはあまり感じられなかった、人間らしい温もりと優しさに溢れていた。
その最大の理由は、この作品が発売を目的として録音されたものではない、ということ。2005年に英国で制作されたドキュメンタリー番組で、キースと当時の妻ロザーンが次にように告白している。

キース「あれは妻へのクリスマス・プレゼントさ。病気で家から出られなかったけど、何かあげたくて」

ロザーン「クリスマスの日に、キースは私にリボンで包まれた数本のDATテープをプレゼントしてくれたの。ロマンティックで素敵な贈りものに、思わず泣いてしまったわ」

献身的な介護を続ける妻への精一杯の感謝のしるし。タイトルの「You」とは妻ロザーンのことだったのだ。

静かな夜、聴き手の心にそっと寄り添う繊細なメロディ。そこに込められたキースの妻への真摯な愛は、作品の背景を知らない者をも等しく包み込む。それこそが、このアルバムが多くの人々から愛される所以なのだろう。
かくいう私も、自分にとって大切な人と出逢えたときには、このアルバムを贈るようにしている。その人たちの部屋でこの音楽が鳴っているのを想像するだけで、幸せな気分になるのである。

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