第1回 臨死と食欲

金曜の夜になると南に向かう電車に母と乗り、山あいの鄙びた病院で週末を過ごした。高校生の頃だった。記憶のカメラはなぜか病室の天井にあって、俯瞰で室内を捉えている。ベッドに横たわる残り時間の少なくなった祖母と、窓辺の椅子で退屈を持てあます私。チューブから栄養摂取する痩せ細った祖母の身体と、旺盛な食欲を反映した10代の私のむっちりした肌。生と死は隣り合わせ、コントラスト。ずいぶん前から、私はそれを視覚で知っている。

「顔面麻痺」は、バイク事故を起こしたビートたけしが集中治療室に運ばれてから、退院し会見を開くまでの2ヶ月が日記形式で綴られる。かつてテレビで観た会見は、目を逸らしたいけれど逸らせない、強烈な何かに触れた感触だけが遠い記憶に残っていた。弟子がつけた看護日誌も織り交ぜ、病室内での動きや食べたものも詳細に記録されている。死に至らなかったことが不思議なほどの強い衝撃でボロボロになった身体に点滴で栄養が注入され、意識が回復した後は、食べ物に執着が薄かったはずなのに、食べることばかり考える。病院食に加え柔らかい食べ物を選び、日ごとに量が増える。動かず食べてばかりいても、栄養はひたすら身体のリペアに使われ、太るどころか痩せてゆく。

意識を働かせ思考を巡らすステップは、自力で食事する機能を取り戻した次にあるらしい。やがて野生の勘を頼りに、周囲の説得を受け入れず、手術を拒否する決定的な一日がやってくる。倒れた動物がふたたび立ち上がり、傷ごと背負って毅然と歩いてゆくさまを、圧倒されながら見守るような読書だった。巻末の会見採録まで読み終わると、当時の映像を探して眺めた。歪んだ口元は咀嚼が難しそうで、会見に至るまでの病室での日々を反芻した。

フレデリック・ワイズマン監督「臨死」は、アメリカのある病院の集中治療病棟で撮られたドキュメンタリー。現実の前に透明のカメラを置いたように淡々と医療現場が映し出される。358分の長い映画の大半を、患者の家族と医師の対話が占める。刻々と病状が悪化し選択肢が減る中、現状説明と対策の提示に努める医師の姿に、もし死ぬ場所を選べるなら、この病院で死にたいと思った。患者たちの意識は混濁しており、食事の場面は皆無だった。

最後のシークエンス、ある患者に僅かに回復の兆しが見えた瞬間、映像が終わった。少し希望が漂うラストシーンにホッとしたのも束の間、その後の字幕で患者が間もなく亡くなったことを知り、膝から崩れ落ちる思いを味わう。あの場所から元の生活に戻ることはずいぶん難しいらしい。食べ、立ち上がり、病室を出て行ったビートたけしは本当に奇跡の復活だったのだ。祖母は病室から出ることなく亡くなった。

午後を丸ごと「臨死」に費やし、映画館を出ると夜だった。いろんな匂いの混じった、もったりした円山町の空気で深呼吸すると、歓楽街のネオンがキラキラと目に染みた。生の歓びを高らかに謳うどんな映画を観た後よりも、遥かに生きる気力が漲っていた。生と死は隣り合わせ、コントラスト。浴びるように死を見つめた後は、どうしようもなく生きたくなるの。道玄坂を下りながら、顔を上げると夜空に永谷園の看板が輝いていた。渋谷の谷を白米で満たし、あの巨大なお茶漬け海苔で食べてしまいたい。次の角を曲がったところに死が待っている可能性は誰にも平等で、もちろん私も例外ではない。けれどもその瞬間、私は生きていて、酷く空腹だった。

Book info :
「顔面麻痺」ビートたけし著 太田出版 1994年
Movie info :
「臨死」フレデリック・ワイズマン監督 1989年