旅の記憶、映画の鍵
維倉みづき

第四回 エクス・マキナ

12月、夏のパタゴニアで氷河の上を歩いた。氷河の両岸には森が広がり、小雨が降り注いでいる。雨雲が低く垂れ込める中、岸から眺める氷河は乳白の水色に発光していた。氷河だけ異空間から投影されているかのような錯覚にとらわれる。

アイゼンを付けて氷河に足を踏み入れると、氷河の肌は何度か溶けて固まってを繰り返した春の残雪のように白くザラついている。雨で氷河の表面が柔らかくなっているのかと思い、体重を支えようと氷に手をついた瞬間、言葉を失った。預けようとした体重が何倍もの衝撃で手の平に跳ね返ってきた。氷河は、表面まで一分の隙もなく硬く凍った、氷の塊そのものだった。

アイゼンに一層力を入れ一歩一歩進む。次々と縦横無尽に走る氷河の亀裂が現れる。白い表面から、亀裂の奥へ下へと行くに従って、氷の青は深さを増す。水の青さは空が曇ると姿を消すけれど、氷の青は逆だった。前日までに見た青空の下の氷河の青みより、鮮やかに輝いて見えた。そして氷の合間に佇む水は深さに関わらず無色透明。これまで知っていた海や湖といった水の世界と、目の前に広がる氷の世界は全く別世界なのだと興奮する。

氷の亀裂の終点はどんな深い青なのだろうと覗き込むも、曲がりくねる氷の壁に阻まれ視線は遮られる。氷の奥で輝いているであろう、黒でも紺でもない深い青を想像する。亀裂を渡る順番待ちをしている間、自分の片足のアイゼンの紐が緩んでいることに気が付いた。スニーカーの底など受け付けない氷の肌、締め直さなければ、私はあっという間に氷の谷間に吸い込まれるだろう。深い青に呼ばれているのかしらと氷河の内部を凝視する、氷世界の色彩の魔力にかかった私がいた。

女性の姿をしたロボット「エヴァ」に搭載された人工知能をテストする様子を描いた映画『エクス・マキナ』は、人里離れた研究所を舞台にした密室心理劇。殆どの場面に、エヴァの胴体や研究所のセキュリティー・パネルなどの人工の青い光が浮かんでいる。この青が、エヴァが目にしたことのある「青」の全て。研究所の外に出れば、空と氷河が広がっている。

エヴァのテストのために研究所に派遣された青年・ケイレブが、エヴァに思考実験「メアリーの部屋」について話す。メアリーという科学者がいた。彼女は色に関する全ての知識を持っていたが、生涯を白黒の空間で過ごしており、外の様子も白黒画面を通して見るのみだった。ある日、何者かがメアリーの部屋のドアを開けた。メアリーは外の世界に出て、研究では決して得られなかった「見たことのない色を見る」という初めての体験をする。これは、コンピューターと人間の違いに関する思考実験。コンピューターは白黒の空間のメアリー、人間は外に出たメアリー。

私は、見たことのない色を見た時、感じた時の自分を思い出す。メアリーが、エヴァが、外に出て氷の青を見た時、それは氷の色に関する知識の確認だろうか。それとも、初めて見る青が引き金となって思いもよらない行動をとるだろうか。