私のかけら 29  長谷部千彩

――これはかけら。季節のかけら。東京のかけら。私のかけら。

4月×日 霧雨

長話するつもりなどなかったのに、一時間半も話し込んでしまった。最近の私はお喋りだ。一時は、ひとと会っても、話すことがなくて困っていたのに、いまは、饒舌とまではいかないにしても、あれこれ話したいことが頭に浮かぶ。旅への興味も湧いているし、意識が外に向かい始めている証拠。いい傾向。この延長線上に、本づくりに取り掛かる自分がいるといいな、と思う(この一年、その作業をサボっている)。
カフェを出ると、霧雨が。傘をささずに家路を急ぐ。道端に植えられたジャスミンに目をやると、白い蕾が膨らんでいる。この分だと来週には咲き始めるのではなかろうか。一年に一度、楽しみにしている春の香り。
帰宅すると、memorandomで新連載をお願いしているIさんから原稿が届いていた。Iさんからのメールには、自分では連載に値すると思っていない、と書いてあるけれど、私は続きを読んでみたい。連載の構成案も興味深い。
夜、カーテンを閉めるときに、ブラックベリーの苗木に花が咲いているのを見つけ、思わず、わあ、早い!と声をあげる。私の気分は上向きとはいえ、軽くスキップしているような、のどかなものなのに、植物は全速力で季節を駆け抜けていく。毎年のことながら、その勢いにたじろいでしまう。

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4月×日 一緒に歩く

長らく使用していない口座があったので、銀行に行き、解約手続きをしてきた。雨のせいか窓口はすいていた。
返された通帳の表紙には、「解約」とスタンプが押されている。通帳をパラパラとめくってみると、フランスで暮らすための費用をパリの預金口座へ送金した記録が目に留まった。日付を見ると、七年前。そんなに時間が経ったのか。なんだか少しせつなくる。
あの頃、私は、それまでの自分にはできなかったことに挑戦してみたいと思っていた。仕事を離れてみる、ひとりで旅をする、日本を出て暮らす――。慣れ親しんだ東京の生活から飛び出してみたい、それが私の願いだった。そして、実際、思いつくまま行動に移した。そのうちのひとつが、フランス暮らしだったのだ。 傍から見れば珍しくも何ともない、あまりにささやかな挑戦。ありふれた経験の数々。でも、私にはどれも胸の高鳴る冒険だった(その様子を綴っていたブログを読まれた方もいらっしゃると思う)。それらは、私の心の中に思い出として残っている。
それに引き換え、いまの生活はどうだろう。遠出をする機会も、日々の興奮も、あの頃に比べると随分と減ったように思う。
正直、あのまま日本を離れて暮らしていたら、今頃、私はどこにいたのだろうと考えることもある。でも――。羽ばたこうとする想像を、現実の私が押しとどめる。もしも日本に戻っていなければ、本を出版することもなかった、目の病気に気づくこともなかった、帰って来たからこそできた経験もたくさんある、知り合えたひとたちもたくさんいる――。それに、いまの私には、どうしてもやっておきたいことがある。最後にはそこに行きつく。それは、高齢になった母が元気なうちに、できるだけ一緒に歩くこと。後から、もっと言葉を交わしておけば良かった、と悔やむことのないよう、私はやっぱり日本にいたい。
七年前、私はひとりで歩くことを楽しんでいた。時は流れて、私はいま、ひとと歩くことを楽しんでいる。

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4月×日 読書

午後、喫茶店で家に届いていた文芸誌『文藝』を読む。若竹千佐子氏と町田康氏の対談など。
しばらく活字から離れていたので新鮮。読む行為自体が楽しい。
帰宅後、ゼラニウムの剪定とマーガレットの花がら摘み。ゼラニウムのほうは、花つきが悪くなってきたので、植え替えが必要かもしれない。
週末、晴れたら園芸作業をしようと思う。花粉が飛んでいないといいけど。

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4月×日 大人の遠足

スギには全く反応しなかったのに、ヒノキの花粉が飛ぶようになってから、鼻はムズムズするし、喉も痛い。それでも、目に来ていないだけまだましか。マスク無しでも歩けているし。
今日は、帰りに駅に寄り、桜祭りに行くための新幹線の切符を受け取ってきた。窓口には長い行列が出来ていて、私の番が来るまで結構待った。でも、待った甲斐はあったと思う。窓口のひとに調べてもらい、割引が適応される乗車券を手に入れることができたから。
かねてより行きたいと思っていた北の町。国内旅行って、海外旅行とはまた別のワクワク感がある。大人の遠足という感じ。

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4月×日 当てが外れる

午後、ベランダにて園芸作業。銀木犀の剪定。シーズンの過ぎたチューリップの鉢の片づけ。
もう駄目だろうと思っていたアマリリスの球根からは、元気のいい緑の葉が伸びていた(咲くかな?)。
驚かされたのはフリージア。全然期待していなかったのに、花がたくさんついている。ここ数日暑かったせいか、萎れかけていたので、慌てて切って花瓶に生けた。

園芸用土を処分しようと思い、回収業者に電話するも、引き取りは最短で三週間後と言われる。そこまで待たされると思っていなかったので、予定を確認して、改めて申し込むことに。業者のサイトには一週間以内に回収と書いてあったからそのつもりでいたのに、当てが外れてがっかり。ああ、物事って少しずつしか進まない!